弥栄、に関する文面17に進みます。
今回、は地震の巻 第九帖 その2です。
今回も、引き続き、御神示マンデラ・エフェクトは、全体的に起こっています。
想念の本、もとを「本」と記されるのもあまり記憶にはなく(初めて?)、
また、体的歓喜、霊的歓喜、軽重の差はない。というのも、単語も文面も初めて、と見ています。
霊、体、悪は、何故存在しているのか、という問いに対しても答えており、
それは、動き、力し、働く為にあります。
この事で、中心を・とする、立体的動きの中に呼吸する事が、正しき惟神の歓喜、惟神の歓喜は、総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。と伝えられています。
それでは、弥栄、に関する文面17 をお伝えしますね。
- 1.地震の巻 第九帖 その2 中心を・とする、立体的動きの中に呼吸する事が、正しき惟神の歓喜です。惟神の歓喜は、総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。
- Ⅰ.地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神のもつ想念の本は大歓喜です。神は大歓喜によりて総ての行為の本となります。
- Ⅱ.地上人そのもののみの行為はなく、いずれも、神の内流による歓喜の現れ、です。
- Ⅲ.歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属します。
- Ⅳ.軽重の差はなくても、差を作り出さねば、力を生み出すことはできない為、そこで、善をつくり力を生み出すところに悪の御用があります。
- Ⅴ.動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れます。霊、体、悪は、動き、力し、働く為にあります。
- Ⅵ.常に動き栄え、大和のうごきのを中心とする、上下、左右、前後の円を描き、中心を・とする、立体的動きの中に呼吸する事が、正しき惟神の歓喜です。
- Ⅶ.惟神の歓喜は、総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。故に、永遠の大歓喜、大和の大真、大善、大美、大愛となります。
- 2.まとめ
1.地震の巻 第九帖 その2 中心を・とする、立体的動きの中に呼吸する事が、正しき惟神の歓喜です。惟神の歓喜は、総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。
Ⅰ.地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神のもつ想念の本は大歓喜です。神は大歓喜によりて総ての行為の本となります。
●地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神のもつ想念の本は大歓喜である。故に、地上人は霊人によって総ての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりて総ての行為の本とする。
地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神様であり、神様のもつ想念の本は大歓喜、にあります。
故に、地上人は霊人によって総ての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりて、総ての行為の本、とすることとなります。
ちなみにですが、もとを、元はあっても、本、という記載は初めてのように思います。
Ⅱ.地上人そのもののみの行為はなく、いずれも、神の内流による歓喜の現れ、です。
●故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。
故に、地上人そのもののみの行為なるものはありません。
何れも、神よりの内流による歓喜の現れである事を知らねばなりません。
Ⅲ.歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属します。
●歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。
歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属します。
霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属します。
ですが、体的歓喜と霊的歓喜、の軽重の差はありません。
Ⅳ.軽重の差はなくても、差を作り出さねば、力を生み出すことはできない為、そこで、善をつくり力を生み出すところに悪の御用があります。
●しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。
しかし、差のない立場において、差を作り出さねば、力を生み出すことはできず、弥栄はあり得ないのです。
すなわち、善をつくり力を生み出すところに悪の御用があります。
Ⅴ.動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れます。霊、体、悪は、動き、力し、働く為にあります。
●動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。
動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてきます。
霊にのみ傾いてもなりませんが、強く動かなければならないです。
体のみに傾いてもなりませんが、強く力しなければなりません。
悪があってもなりませんが、悪がはたらかねばならないようになっています。
Ⅵ.常に動き栄え、大和のうごきのを中心とする、上下、左右、前後の円を描き、中心を・とする、立体的動きの中に呼吸する事が、正しき惟神の歓喜です。
●常に、動き栄えゆく、大和の(右渦)(うごき)を中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心を・とする立体的うごきの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神の歓喜である。
常に、動き栄えゆく、大和の(右渦)(うごき)を中心とする上下、左右、前後、に円を描き、中心を・とする立体的うごきの中に呼吸しなければなりません。
それが正しき惟神の歓喜、とあります。
Ⅶ.惟神の歓喜は、総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。故に、永遠の大歓喜、大和の大真、大善、大美、大愛となります。
●惟神の歓喜は総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。
惟神の歓喜は、総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。
故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝きます。
2.まとめ
地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神のもつ想念の本は大歓喜です。神は大歓喜によりて総ての行為の本となります。
地上人そのもののみの行為はなく、いずれも、神の内流による歓喜の現れ、です。
歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属します。
霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属します。
ですが、体的歓喜と霊的歓喜、の軽重の差はありません。
軽重の差はなくても、差を作り出さねば、力を生み出すことはできない為、そこで、善をつくり力を生み出すところに悪の御用があります。
動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れます。
霊、体、悪は、動き、力し、働く為にあります。
常に、動き栄え、大和のうごきのを中心とする、上下、左右、前後の円を描き、中心を・とする、立体的動きの中に呼吸する事が、正しき惟神の歓喜です。
惟神の歓喜は、総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。故に、永遠の大歓喜、大和の大真、大善、大美、大愛となります。
修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。
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