地震の巻 愛に関する文面⑪ 第十九帖その2 天国の統治者と礼拝、仕事の在り方について

日月神示、道の生み出し方について

地震の巻 第十九帖 愛の文面でも無いのに、どうしても御伝えしたかったのが、
天国の統治者と礼拝、仕事の在り方について、です。

この辺りの詳細は、以前は無かったのではという事と(要するにマンデラ文面)、後は、組織との在り方、家族との在り方、普段の行、仕事の在り方、礼拝の在り方も参考になるからです。

霊人の統治者、家族、その関係性、礼拝、行、仕事の在り方。

これを、そのまま現世に移していけばよいのです。

そういう意味では、三次元世界における、組織の統治者、家族、仕事、の関係性は、霊界視点で言えば、あまり関係ない事も判ってきます。

喜び、歓喜が基軸であり、より小なる存在へ、善と真の浄化、悪と偽を和していく事が求められるのです。

それでは、第十九帖その2、天国の統治者と礼拝、仕事の関係性についてお伝えしますね。

1.地震の巻 愛に関する文面⑪ 第十九帖 その2 天国の統治者と礼拝、仕事の在り方について

Ⅰ.統治者は、よりよく奉仕するのみです。善と真の浄化、悪と偽の調和をなし、更なる大歓喜へと努力します。

これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。

天国の組織の統治者は権力を奪うこともなく、また指令することもありません。
よりよく奉仕するのみです。

奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなすことにあり、これらの総てを神様の力として生かし、更に高度なる大歓喜に至らないか、と努力することにあります。

統治者の特徴として、現世の世界と比較して
まず、権力を奪うことない、という点がまずありますね。
続いて、指令することもありません。
よりよく奉仕するのみ、なのです。

奉仕とは、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなすことです。
この両方ができないといけないですね。

ただ、感覚としては、悪と偽の調和をしていく事が、善、と、真、と自然と浄化される感はあるのですが・・・。段階が進むと、また善と真との浄化が求められるのでしょうか。

更に高度なる大歓喜を至らんことを常々努力している状態でもあります。

故に終わりがありません。

Ⅱ.統治者は、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、自身はその中にとけ入ります。

また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。

統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。ようになります。

確かに、行を進めていきますと、より小の存在に大なる喜びを見い出す機会が増えてきます。
これも、体験と共に判ってきますね。

そして、あらゆる存在を上に見立てていく境地が、継続的千人力の元です。
この境地が、天国の統治者の状況と重複します。

他の善と真とを先として、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る、その為に、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜、となるようです。

指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の御意志に反することを、これらの統治者は、よく知っています。ですから、指令はないのです。

これが、天国の霊界の世界の型なのです。

三次元世界では中々存在しない型です。

Ⅲ.各家庭でも同様の型です。家族達は、主人の意を意として働くことが、最大の歓喜であり、弥栄です。

天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。

天国における政治の基本はこのような感じですが、更に、各家庭においても、同一の形態をもつ政治が行われています。

一家には、一家の中心たる主人。が、即ち統治者となるようです。
前記のように、他の者より大なるとはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。ようになります。

また、その家族は、主人のはたらきを助けたり、主人の意を意として働くようになります。

このハタラキとは、彼らにとって最大の歓喜であり、弥栄です。

それは、即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰でもあります。

Ⅳ.天国の天人、霊人は、歓喜を礼拝することにより、歓喜の流入を受けて、より高き歓喜に進んで行くことになります。

天国に於ける天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。

このようにして、天国における天人、霊人達は、常にその中心、歓喜たる統治者を神様として礼拝します。

歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことにあります。

Ⅴ.天国における礼拝とは、礼拝生活です。総てと拝み合い、かつ歓喜し合うことにあります。

けれども、天国における礼拝は、地上人のそれの如き礼拝ではない。礼拝生活である。総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。

天国における礼拝とは、地上人のそれの如き礼拝ではありません。
礼拝生活、です。

総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことです。
これが、天国における礼拝です。

与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こと、天国の礼拝の基本です。

このように、家族、集団を現世に生み出す事は、かなり難しくありますが、礼拝生活をしていく事で、此の道に向けて、人が集まる世界を実現していく事が可能です。

ネット上、SNSでは比較的容易ですし、実現はそれ程難しくないかもしれません。

与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本です。

そして、その集団が居ないな、と思うのであれば、御自身が神を礼拝し、仕事をしていく事もよいでしょう。
やがて、周囲に現れ始めます。

Ⅵ.天人、天使の立場によって、礼拝型式、表現は違っていても、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝という点では一致しています。

故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。

故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の型式、表現は相違しています。

ですが、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点では一致しています。

Ⅶ.天国における礼拝は、千変万化、無限と永遠に対するものです。

地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。

地上人的礼拝は、型式の世界たる地上においては、一つのいき方ですが、天国における礼拝は、千変万化で無限と永遠に対するものです。

地上では、どうしても、型式の囚われ、一つとしての色合いが強いですが、天国では、千変万化という点で大きく違います。

また、無限と永遠、に対しても違いがあるかもしれません。

Ⅷ.この世の一切の限りなき変化、弥栄そのものが、無限と永遠の、神様のハタラキである事を理解しておく必要があります。

無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。

無限と永遠は、常に弥栄しているが故に生じるものですが、その弥栄が神様のハタラキです。

ですから、世の中における、一切の森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神のハタラキ、である事を知らなければなりません。

逆に言えば、この世の動き、ハタラキ、弥栄、一切が、無限と永遠の神のハタラキであり、それは、霊人の礼拝生活でもある事を理解しないとならないのです。

故に、霊界でも、囚われの世界も多い事が判ってきますし、だからこそ、悪、偽には、意志し理解し、和していく事が求められるのです。

その悪、偽と和するハタラキがしやすいのは、この三次元世界である事も判ってくると思います。

2.まとめ

天国での統治者は、権力を奪うこともなく、また指令することもありません。
よりよく奉仕するのみです。

統治者は善と真の浄化、悪と偽の調和をなし、更なる大歓喜へと努力します。
統治者は、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、自身はその中にとけ入ります。

あらゆる存在を上に見立てていく境地、千人力の境地と重複します。

各家庭でも同様の型です。家族達は、主人の意を意として働くことが、最大の歓喜であり、弥栄です。
これが、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰です。

このようにして、天国の天人、霊人は、歓喜を礼拝することにより、歓喜の流入を受けて、より高き歓喜に進んで行くことになります。

天国における礼拝とは、礼拝生活です。
総てと拝み合い、かつ歓喜し合うことにあります。
与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こと、天国の礼拝の基本です。

天人、天使の立場によって、礼拝型式、表現は違っていても、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝という点では一致しています。

天国における礼拝は、地上の礼拝とは違い、千変万化、無限と永遠に対するものです。

この世の一切の限りなき変化、弥栄そのものが、無限と永遠の、神様のハタラキである事を理解しておく必要があります。

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

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