なく(七九)に関する文面最後になります。
補巻 月光の巻 第六十帖 と 星座之巻 第十九帖の二つの文面です。
今回のマンデラ・エフェクト文面は、
為すには、まず、祈りから始まりますが、それだけでなく、為すのは御自身ですから、
御自身に向けて祈る事が求められます。
その上で、為して行く事が求められます。
この御自身に向けて祈るは、初めての文面ではないかと見ます。
後は、子音と母音と組み組みて、父音の気を入れて始めて言葉となる、日本の古(光)(九)語、マコトの言葉、言霊、数霊と倶に弥栄していく、事を伝えています。
こちらは、以前どこかからか起こったマンデラ・エフェクト文面です。
今現在、為せば成る世に入ってきていますから、今の世にふさわしい文面が最後に待っていました。
それでは、御伝えしていきますね。
1.補巻 月光の巻 第六十帖 為すには、己に祈らねば成らんようになっています。祈った後、更に為さないと成りません。
Ⅰ.自分の力かくすことで、頭に立つ時が来ます。
●そなたは自分の力を人に見せようとしてゐるが、無邪気なものぢゃのう。自分の力がかくせぬようでは、頭に立つこと出来んぞ。何も彼も出して了ったのでは味がなくなるぞ。
自分の力を人に見せようとしてゐる事は、無邪気とあります。
自分の力かくせぬようでは、頭に立つこと出来ん、とあります。
実は、この事が試される境地がこの後来るかもしれません。
自分の力をそもそも、見せてゐる余裕も無くなるかもしれません。
このような境地は、此の道に進む方には誰もが来る可能性があります。
いずれは、頭に立つこともあるでしょう。
そこで、何もかも出してしまったのでは味がなくなります。
ですが、普段、御自身は、何もかもだしてしまう事は求められるところもあります。人の前で見せないだけです。(その余裕が無くなるといった方がいいかも)そして、味が七九成るように変わる可能性はあります。
Ⅱ.為すには、己に祈らねば成らんようになっています。祈った後、更に為さないと成りません。
●そなたはよく祈る。祈ることは結構であるなれど、祈るばかりでものごと成就せんぞ。為すには先づ祈らねばならんが、そなたはそなたの神にのみ祈ってゐるぞ。為すのは己であるから、己にゐのらねばならんぞ。己に祈りた後、己が為さねばならんぞ。乳房与えられても自分で吸はねば自分の身にはつかぬ道理ぢゃ。
此の道に進む人、祈る方は、やはり多いと思います。
実際、十柱の神様に祈ります事で、災厄回避も実感できますし、天変地異回避もできます。
ただ、祈ることは結構ですが、祈るばかりだけでは、ものごと成就しません。
為すには、先ず祈らねばなりませんが、この時、御自身の神のみに祈っている事が殆どです。
実際には、為すのは、御自身ですから、御自身に向けて祈らないと成りません。
この文面も初めてではないかと見ます。御自身に向けて祈って下さい。
更には、御自身に祈りた後、御自身が為さねばなりません。
乳房与えられても、自分で吸はねば自分の身にはつかない道理です。
Ⅲ.時々は省みなければ成らんようになっています。
●だが、為したのみでは未だ足らんぞ。時々は省みなければならんぞ。
ですが、為したのみではまだ足りません。
時々は、省みないと成らんようになっています。
九進んだら、一省みる、辺りが丁度良いのではと思います。
省みる時は、新たな道を生み出す時です。
此の世でも、殆どは、過去を省み修正する事で、次の段階に進んできます。文明の発展もそうですね。
また、行き詰り、の時は、省みて、考える時、が多く占める事になります。
しかし、残念ながら、多くの方々は、行き詰りの時、あまり省みず、ただ結果だけを求めてゐる方が殆どです。
Ⅳ.心と行と口と三つそろはねばならんようになってゐます。三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与へられます。
●そなたは形や口先ばかりでものを拝んでゐるが、心と行と口と三つそろはねばならん。三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与へられるのぢゃ。
形や口先でものを拝んでいても、心・口・行と三つそろはねばならんようになっています。
特に、行ですね。
まずは、最初は、キ、からですから、心が先行するケースが殆どです。
多くのケースは、思うで留まる事が多いです。また、口だけの事も多いです。
ですが、その後、行、が伴う事が求められます。
ですから、だまって行動をまず、最初にする位で丁度良い位かもしれません。
ですが、三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも、与へられるのです。
口は最後でも良いかもしれません。
後述しますが、最後は、話をしなくなっていきます。
Ⅴ.拝む所へ ものは集まってきます。神様も集まり、足らぬものなく(七九)なります。
●拝む所へ ものは集まってくる。神も集まってくる。足らぬものなくなるぞ。余ることなくなって、満たされるのが まことの富ぢゃ。清富ぢゃ。
拝む所へ ものは集まってきます。
神様も集まってきます。
足らぬものなく(七九)なってきます。
ですから、足らぬものが、次々、新たな形で生み出されているのであれば順調です。
また、余ることなく(七九)なって、満たされるのが、まことの富です。
余る九十の方も、七九なって、満たされていくのも、まことの富とも言えそうです。
それが、清富です。
2.第三巻 星座之巻 第十九帖 子音と母音と組み組みて、父音の気を入れて始めて言葉となります。
Ⅰ.人民がもの言わなくなり、マコトの世となります。天人の言葉は、マコトですから、只一言で、万語を伝えます。
●人民もの言わなくなると申してあろうが、ものが今迄のようにものを言わなくなり、マコトの世となるぞ、天人の言葉はマコトであるから、只一言で万語を伝へ得るぞ。
人民、もの言わなくなると申してゐますが、ものが今迄のようにものを言わなくなり、
マコトの世となります。
天人の言葉は、マコトですから、只一言で、万語を伝へ得る境地となっていきます。
これも、此の道に進んで行きますと、一言に思念、様々な考え方等、を集約させていく事が求められます。
此の道の内容も、40分かけて、15分程かけて、5分程かけて、伝えていく。
様々な試しをしていく事になります。
段階が進みますと、短い時間の方が、仕事量が増えて来る境地にもなってきます。
此の道を進むには、時間はかかりますが、時間をただかければ良い、という訳でもないのです。
Ⅱ.言葉のいのちは、愛、真、ですから、真愛から発しない言葉はマコトの言葉でありません。
●言葉の生命(いのち)は愛であり、真であるから、真愛から発しない言葉はマコトの言葉でないぞ。
言葉の生命(いのち)は愛ですし、真でありますから、真愛から発しない言葉はマコトの言葉ではありません。
その為には、理解しよう、とする所から始まるようになっています。
永劫の愛、真愛、には、どこかに必ず理解が入ってきます。
Ⅲ.子音と母音と組み組みて、父音の気を入れて始めて言葉となります。
●子音と母音と組み組みて父音の気を入れて始めて言葉となるのぢゃ、今の人民のは言葉でないぞ、
これも、どこかから始まったマンデラ・エフェクト文面です。
子音、母音、と組み組みて、更に、父音のキを入れて、始めて言葉となるのです。
子音、母音、は判ると思いますが、父音のキ、とは、二意ン、のキです。二二のキ、しきまきや、のキです。
それは、理解から始まる、真愛のキ、です。
今の世界では、父音のキが抜けているのです。ですから、しきまきや、が抜けている、のです。
あなはち、しきまきや、くにつつみ、が抜けていると、汚く聞こえる、と他の文面でもあるのですが、父音が抜けている為ですね。
ですから、今の人民のは、言葉ではない、と伝えられています。
父音が抜け、あなはち、しきまきや、くにつつみ、抜けている為です。
Ⅳ.父音の気が入った言葉が、日本の古(光)(九)語、マコトの言葉、言霊、です。数霊と倶に弥栄していきます。
●日本の古(光)語がマコトの言葉ぞ、言霊ぞ、数霊と倶に弥栄ゆく仕組。
日本の古(光)(九)語が、マコトの言葉です。
そして、言霊です。
カズタマと共に弥栄ゆく仕組みです。
一二三四五六七八九〇、の父音の理解と共に、言葉に、あなはち、しきまきや、くにつつみ、を乗せて、話してください。
3.まとめ
自分の力かくすことで、頭に立つ時が来ます。
祈ることは結構ですが、祈るばかりだけでは、ものごと成就しません。
為すには、先ず祈らねばなりませんが、この時、御自身の神のみに祈っている事が殆どです。
為すには、己に祈らねば成らんようになっています。
更には、御自身に祈りた後、御自身が為さねば成りません。
また、時々は省みなければ成らんようになっています。
心と行と口と三つそろはねばならんようになってゐます。
三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与へられます。
拝む所へ ものは集まってきます。
神様も集まり、足らぬものなく(七九)なります。
人民がもの言わなくなり、マコトの世となります。
天人の言葉は、マコトですから、只一言で、万語を伝えます。
言葉のいのちは、愛、真、ですから、真愛から発しない言葉はマコトの言葉でありません。
子音と母音と組み組みて、父音の気を入れて始めて言葉となります。
これが、日本の古(光)(九)語、マコトの言葉、言霊、です。
数霊と倶に弥栄していきます。
一二三四五六七八九〇、の父音の理解と共に、言葉に、あなはち、しきまきや、くにつつみ、を乗せて、話してください。
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