愛に関する文面を引き続き進めて参ります。
白銀の巻は以前八帖だったのが、今では七帖と減っている一方で、文面そのものは長文化のマンデラ・エフェクトを起こしてゐます。
白銀の巻のマンデラ・エフェクトは、3年前、起こり始めた当初から結構目立ってはいたものの、更にまた新たな文面が登場しています。
⦿の中の・の中⦿は一であり、二とひらき、三と生命する。
一二三の仕組みのマンデラ文面が現れたのも、まず驚きです。
更に、真の愛、について、それは、お互に喜びの湧き出づることでなければならない事。
このように明確に伝えたのも驚きです。
更には、理なき道、生も死もない、天国に向けての話。がかなり具体的になってきています。
今回のマンデラ・エフェクトも驚きしかありませんが、引き続き、愛に関する文面を御伝えしていきます。
- 1.白銀の巻 第三帖 真の愛、喜びが理で、道なき理についての文面
- Ⅰ.⦿の中の・の中⦿は一であり、二とひらき、三と生命します。一二三の仕組みのマンデラ文面です。
- Ⅱ.ハラで判ることが大切です。・に捉はれると、・判りません。
- Ⅲ.現界が天国であり、現在で天国を生み出し天国に住めない者は、死んで天国には住めないようになっています。
- Ⅳ.まことの天国は、喜びのみが生きてゐます。善、悪、真、偽、愛、憎、が喜びととけいる事が求められます。
- Ⅴ.弥栄の道、神の喜び、は、人間の喜びの中にあります。
- Ⅵ.お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛ではなく、理(ミチ)ではありません。
- Ⅶ.天国の理は、今の人間が申したり、考へたりする道ではありません。道なき理です。喜びが理です。
- Ⅷ.喜びにとけ入ることで、生も死もなくなります。
- 2.まとめ
1.白銀の巻 第三帖 真の愛、喜びが理で、道なき理についての文面
Ⅰ.⦿の中の・の中⦿は一であり、二とひらき、三と生命します。一二三の仕組みのマンデラ文面です。
●⦿の中の・の中の⦿は一であり、二とひらき、三と生命するぞ。理は一(ヒ)で二(フ)で、三(ミ)であると申してあらう。一(ヒ)も二(フ)も三(ミ)も同じであり、違って栄えるのざ。一二三(ヒフミ)であるぞ。このこと教へられても判るまい。
この文面全てがマンデラ・エフェクトですね。
このこと教へられても判るまい。そりゃ判りませんね。(笑)
頭で考える程に難しくなってしまいます。
ですが、⦿の中の・の中⦿、が、ひふみの順ではないでしょうか。
一番最初の⦿が一、次の・が二、最後の⦿が三と生命する、となら結構しっくりきました。
そして、最初の⦿と最後の⦿は同じに見えて違うのです。
途中の・が、二とひらく、事が大切ですね。
それによって、三と生命するのです。
理(みち)は、一(ヒ)で二(フ)で、三(ミ)であり、同じであり、違って栄える、とあります。
これが一二三(ヒフミ)です。
教えられても判るまい。という事はこういった事ですが、次にその判り方について書かれています。
Ⅱ.ハラで判ることが大切です。・に捉はれると、・判りません。
●ハラで判る大切こと、ハラ大切ぞ。かたまってはならん。・に捉はれると・は判らん。地の定規ではかってはならん。如何なる天国も自分でつくるのぞ。そろばん捨てよと申してあらうがな。よろこびは理(ミチ)ぞ。数ぞ。言ぞ。真理ぞ。愛善ぞ。生命のイキと云ふこと判るであらう。
ハラで判る大切こと、ハラ大切です。
かたまってはならん、ようになっています。
・に捉はれると、・は判らんようになっています。
ですが、・によって、理が、一(ヒ)で二(フ)で、三(ミ)、として栄えていく事が分かっていればよいのです。
重要な所は、⦿、・、⦿の順、ですね。・、・、・、ではない処です。
・、・、・、なら、思念だけの世界ですが、⦿、・、⦿とは、型に出て、思念によってひらき、また型になって現れるのです。同じであって違って栄える、のはこういった所にあります。
ですから、地の定規で、はかってはならん、のはそういった事ですね。はかった所で判るわけないのです。
如何なる天国(・五九)も御自身で作って下さい。
そろばん捨てよ、と申されてゐますが、実際、此の道に進みますと、そろばん、どんどん捨てる流れ、となります。
よろこびは、理(ミチ)です。
その元となるのが、数、言、真理、愛善、にあります。
これらが、生命のイキ、です。
Ⅲ.現界が天国であり、現在で天国を生み出し天国に住めない者は、死んで天国には住めないようになっています。
●天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ。天国は霊人のみの住む所でないぞ。そなた達も今住んでゐるでないか。霊人も現界に住んでゐるでないか。現界をはなれて天国のみの天国はないのであるぞ。故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理ないのぢゃ。アメツチと申してあらう。この道理よくわきまえよ。
天国、と申すのは一人の大きな人間です。
つまり、天国とは、御自身であり、また、周囲全て、という事ですね。
まずは、御自身そのものが、天国、となれる事が求められるのでしょう。
天国は霊人のみの住む所ではありません。
そなた達も今住んでゐるではないか。とありますが、御自身そのものが此の世を、天国の境地として早く進めばよいのです。
続いて、此の世も天国にしていけるかどうかですが、これは、此の道に進み、カミヒト共にでないと無理、と見てゐます。ですが、此の道に進みますと、此の世を天国としていけます。それも永劫に続く、ものです。
霊人も現界に住んでゐるというのは、ここまでのお話で分かると思います。
御自身とは、霊人であり、肉体、という衣を着ているのです。
現界をはなれて、天国のみの天国はないのです。
故にこそ、現界で、天国を生み出し、現在で天国を生み出し天国に住めない者は、死んで天国には住めないようになっている、という事なのです。
ですから、御自身で、周囲に天国を、この現界に生み出す事が求められます。
ここにおける、アメツチ、とは、此の地に天国を生み出す、という解釈が一つあります。
Ⅳ.まことの天国は、喜びのみが生きてゐます。善、悪、真、偽、愛、憎、が喜びととけいる事が求められます。
●善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国ぞ。まことの天国には喜びのみが生きてゐるのであるぞ。喜びの中にとけ入って、喜びのものとなってゐるのであるぞ。喜び食し、喜び着、喜びを呼吸し、喜び語り合って、嬉し嬉しとなるのぞ。
善、悪、真、偽、愛、憎、は、相対の天国です。
面白いのは、悪、偽、憎、も相対の天国、と含んでいる事です。
云わば、悪、偽、憎、は、新たな世界を生み出す元、天国の元、とも言えます。
まことの天国(てんごく)には喜びのみが生きてゐるので、悪、偽、憎、も喜びの中にとけ入って、喜びのものとなってゐるのです。
悪、偽、憎、が存在しているのは、新たな世界を生み出す為、です。
喜び食し、喜びを着て、喜びを呼吸し、喜び語り合って、嬉し嬉しとなるのです。
Ⅴ.弥栄の道、神の喜び、は、人間の喜びの中にあります。
●いらんものは形が変って来る。新しき生命 湧き出るのであるぞ。善が悪と、真が偽と変った時は死となるぞ。その死は新しき別の生命と現はれて、新しき形の、新しき世界の善となり真となるのぞ。善も悪もないのざと申してあらう。善悪はあるが無いのざと申してあること判りたか。自分自身、己の為の善は死し、善の為の善は弥栄えるぞ。死んだものは新しき形をとって生命するのであるぞ。弥栄の道、神の喜び人間の喜びの中にあるぞ。
この文面は、しきまきや、の所でもありましたので、今回は、あまり詳しく御伝えしません。
参考:善が悪と、心が偽と変わった時は死となり、死んだものは新しき形をとって生命します
今回、こちらでは、喜びの観点から伝えていきます。
いらんものは、喜びから、形が変わってくるのです。
善が悪、真が偽と変わった時は死となり、その死は、新しき別の生命と生まれ現はれて、新しき形の、新しき世界の善となり真となるのです。
そして、また、死となり、新たな存在、と生まれるのです。
善も悪も無いのですが、善悪はあるが無いというのは、この事です。
自分自身、己の為の善は死し、善の為の善は弥栄える事になります。
死んだものは新しき形をとって生命します。
弥栄の道、神の喜び、人間の喜びの中にあります。
Ⅵ.お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛ではなく、理(ミチ)ではありません。
●愛ざと申して愛に囚はれて御座るぞ。真ざと申して真に囚はれて御座るぞ。喜びに生きよ。宗教に囚はれてはならん。道に囚はれてはならん。喜びに生きて、喜びに囚はれるなよ。お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛でないぞ。理(ミチ)でないぞ。
この文面も、初めて、マンデラ・エフェクトで現れてゐます。
お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛でないぞ。理(ミチ)でないぞ。
ここまでは言い切ったものは以前無かったと思います。
真の愛、は少なくとも初めて、です。
愛、と申して、愛に囚われる段階の方も多いです。
真ざ、と申して、真に囚われる段階の方も多いです。
喜びに生きて下さい。
喜びが基軸ですので、悪を悪で無くす、苦を苦で無くす、がどの方にとっても、間違いない喜びです。
此の事で、苦を無くす、新たな世界を次々生み出すからです。
これらを生前からの囚われ、苦しみ、を無くしていけば、五人分、十人分、千人分、と進める事になっていきます。
宗教に囚われてはなりません。三つの実践をして下さい。
かといって、道に囚われてもなりません。道は永劫に変わっていく為です。
喜びに生きて、喜びに囚われないのも、同様です。
喜びも、無限に変わるので、留まらない事が大切です。
お互いに喜びの湧き出づることでなかれば、真の愛にはならないのです。
理ではないのです。
Ⅶ.天国の理は、今の人間が申したり、考へたりする道ではありません。道なき理です。喜びが理です。
●天国に理あると申すが、今の人間の申したり、考へたりするやうな道でないぞ。道なき理と申してあらうが。喜びが理であるぞ。嬉し嬉しの理、早う合点せよ。
天国に理あると申しても、今の人間の申したり、考へたりするやうな道ではない、と御伝えされています。
道なき理、は、こちらも、初めての単語ですね。
そして、喜びが理、というのも初めて、と見ます。
そこで重要なのは、嬉し嬉しの理、の合点です。
それは、次々、新しい世界を生み出して行く事にあります。
これを、理解、体験していく以外、判らないようになっています。
ですから、弥栄実践、祓実践、まつり実践を、あなはち、しきまきや、くにつつみ、と共に、我の洗濯、掃除、改心、を日々、進めていく事にあります。
Ⅷ.喜びにとけ入ることで、生も死もなくなります。
●生命栄えるもの皆喜びであるぞ。信仰とは、その喜びの中にとけ入ることぞ。生も死もなくなるのざ。時間や空間を入れるから、知(血)、通はなくなるのぞ。
生命栄えるもの、皆喜びです。
信仰とは、その喜びの中にとけ入ることです。
喜びにとけいりますと、生も死もなくなるのです。
時間、空間を入れるから、知(血)、通はなくなるのです。
時間、空間も、囚われの元、なのでしょう。
まずは、時間、空間を入れない所から始まりです。
ですが、それを次に此の世に移す事が求められます。
相手、を意志し、理解した上で、その上で、心に刺さる所、興味の持つ所、反応する所、理解できる所、といった所を伝えていく事で、一段一段、相手の心が変わり、そこから新たな世界を生み出されていくのです。
2.まとめ
⦿の中の・の中⦿は一であり、二とひらき、三と生命します。
一(ヒ)も二(フ)も三(ミ)も同じであり、違って栄えます。これが一二三(ヒフミ)です。
これは、ハラで判ることが大切です。・に捉はれると、・判りません。
如何なる天国も自分でつくっていく事が大切です。
よろこびは、理(ミチ)です。
その元となるのが、数、言、真理、愛善、です。
天国とは、一人の大きな人間です。
現界が天国です。
現在で天国を生み出し天国に住めない者は、死んで天国には住めないようになっています。
まことの天国は、喜びのみが生きてゐます。
善、悪、真、偽、愛、憎、が喜びととけいる事が求められます。
その為には、三つの実践、が求められます。
自分自身、己の為の善は死し、善の為の善は弥栄える事になります。
死んだものは新しき形をとって生命します。
弥栄の道、神の喜び、人間の喜びの中にあります。
お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛ではなく、理(ミチ)ではありません。
天国の理は、今の人間が申したり、考へたりする道ではありません。
道なき理です。喜びが理です。
嬉し嬉しの理、早う合点せよ。とありますが、合点するには、此の道から喜びを生み出して行く体験、理解以外ありません。
このようにして、喜びにとけいりますと、生も死もなくなる段階が来ます。
修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。