無い(七一)に関する文面⑮、をお伝えします。
今回は、扶桑之巻、碧玉之巻のそれぞれの文面一つずつです。
今回のマンデラ・エフェクトは、元の元の元をよく(四九)見極め、中の中の中の見えぬものを掴まねばなりません、というものです。
元や、中の、というものは以前からありましたが、元の元の元、中の中の中、といった、
ある意味分かりやすい立体、複立体、立立体的表現となってきているものが、結構目立ってきています。
この他に、冒頭の歌の誕生は、五十黙示録では目立ってきていますが、実際、私自身は、そのウタを行として進めていくようなそのような体験もしてくる事になってきます。
今回は、この2つの文面についてお伝えしたいと思います。
1.扶桑之巻 第十帖 どんなものでも、喜んでむかへると、よろこびとなる結構な仕組みです。
Ⅰ.冒頭のウタ、実際にその行をする時が来ます。
●赤丹(あかに)の頬に きこしめしませ 御酒(ミキ)たてまつる。
文面の冒頭に、ウタが来るマンデラ・エフェクトが五十黙示録では目立っています。
あかにの頬に きこしめしませ ミキたてまつる。
実際、あか二の頬に きこしめしませ、という行を、何故かしている流れとなっています。
顔の頬から、きこしめしませ、ミキ(三キ)たてまつる、という事をしています。
傍から見ますと、顔のマッサージに見えるかもしれませんが、この後の道に進む上で、とても重要な意味があるようです。
私に関しては、このような動きがあるのはたまたまかもしれませんが、冒頭の歌は、マンデラ・エフェクトで現れ続けていますから、その人にとって重要な意味があるものになる可能性があります。
Ⅱ.何事が起って来ても、まず喜んで迎へねばなりません。近づいてくるのは、呼び寄せているからです。
●何事が起って来ても先づ喜んで迎へねばならんぞ、近づいてくるのは呼びよせたからぢゃ、こんないやな、きたないものは、ごめんぢゃと申す人民もあるなれど、それは皆 己の心のうつしでないか。
何事が起って来ても、まず、喜んで迎へねばなりません。
近づいてくるのは、呼び寄せたから、です。
こんないやな、きたないものは、ごめんぢゃと申す人民もありますが、
それはみな 己の心のうつし、です。
Ⅲ.どんなものでも、喜んでむかへると、よろこびとなる結構な仕組みです。
●内に無いものが外から近よる道理ないのぢゃ、どんなものでも、喜んでむかへるとよろこびとなる結構な仕組、よく会得せよ。
内に無いものが外から近よる道理ないのです。
これは、例外なくですね。
どんなものでも、喜んでむかへるとよろこびとなる結構な仕組み、よく(四九)会得せよ、とあります。
しきまきや、くにつつみ、です。
Ⅳ.一段づつ、一歩づつ、進む以外ありません。一足飛びは大怪我のもと、になります。
●何事も一段づつ、一歩づつぢゃ、一足飛びは大怪我のもと。
何事も一段づつ、一歩づつ、です。
御神示に書いてある事も、一歩づつ、実現していく以外ありません。
半霊半物、が最終的目標に近いとは思いますが、いきなり成る事も無いようです。
一段一段です。
周囲の現れも、無限に変わっていくので、あせらず、しきまきや、くにつつみ、会得していく事が求められます。
個人差があると思いますが、私の場合は、千人力体験です。まず、これが、実際にも一番早く、此の道、奥山に近づいていく最善の道、と見ます。この道に一本に絞って、3年目辺りから、現れ始めました。
但し、6つの慢心は、千人力になっても無くなっていない事は忘れてはなりません。
一段一段、今を進めていく以外に無いのです。
2.碧玉之巻 第六帖 元の元の元をよく(四九)見極め、中の中の中の見えぬものを掴まねばなりません
Ⅰ.わざわひ、と言ふのは無いのです。光をわすれ、光にそむくから、イヤな事が起こります。
●わざわひと言ふものは無いのであるぞ、光をわすれ、光にそむくから、イヤな事がおこるのぢゃ、影がさすのぢゃ、禍とか悲しみとか言ふ くらい(暗い)ものがないのがマコトであるぞ、中心は無と申してあろう。
わざわひ、と言ふものは無いのです。
光をわすれ、光にそむくから、イヤな事が起こります。影がさすのです。
禍(わざわひ)とか、悲しみとか言ふ くらい(暗い)ものがないのがマコトです。
中心は無(㋰)です。
Ⅱ.外のカスばかり見てゐるから、つまらんことで、つまらんこと起こってきます
●中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ。
中心は見えませんから、判りませんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起こってくるのです。
その見えない力が永遠の生命と現われるのであるぞ。とあります。
見えない力に、その永遠の生命の答えがあります。
見えるものは有限です。
Ⅲ.元の元の元をよく(四九)見極め、中の中の中の見えぬものを掴まねばなりません。
●この世の大泥棒をタカヤマぢゃと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴(つか)まねばならんぞ、そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。
この世の大泥棒をタカヤマ、と申して、この世を自由にさせておいてよいのか。とあります。
11の囚われがそれに該当しますし、いつまでも、それで、この世を囚われを強固に強めていてはなりません。
それでは、行きつく先、81の世界になるのが、判っていると思います。
元の元の元をよく(四九)見極め、中の中の中の見えぬものをつかまねば成らんようになっています。
そこから正さねば外側からばかり清めても何も成らんようになっています。
ですから、しきまきや、くにつつみ、を起こしていきます。御自身の我の洗濯、掃除、改心、が次々求められます。
3.まとめ
御神示に現れます、冒頭のウタ、実際にその行をしていく時が来ます。
何事が起って来ても、まず喜んで迎へねばなりません。近づいてくるのは、呼び寄せているからです。
ですが、どんなものでも、喜んでむかへると、よろこびとなる結構な仕組みです。
一段づつ、一歩づつ、進む以外ありません。
一足飛びは大怪我のもと、になります。
わざわひ、と言ふものは無いのです。
光をわすれ、光にそむくから、イヤな事が起こります。影がさすのです。
禍(わざわひ)とか、悲しみとか言ふ くらい(暗い)ものがないのがマコトです。
中心は無(㋰)です。
外のカスばかり見てゐるから、つまらんことで、つまらんこと起こってきます。
そこで、元の元の元をよく(四九)見極め、中の中の中の見えぬものを掴まねばなりません。
そこから正さねば外側からばかり清めても何も成らんようになっています。
修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。
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