愛の文面引き続き進めていきます。
丁度 黒鉄の巻に差し掛かっていますが、黒鉄の巻では、マンデラ文面がかなり現れています。
また、黒鉄の巻では、愛に関する文面が多くあります。
地震の巻を簡訳しているような文面もありますし、また、黒鉄の巻にしかない文面もあります。
今回は、黒鉄の巻に登場する愛の文面を全て御伝えします。
- 1.黒鉄の巻 愛に関する文面につきまして
- Ⅰ.まつり合わせて・を入れる事で、愛となり、真となります
- Ⅱ.真なき愛の道、悲しみの喜びから生むのは、罪の子となります。その為には、悔い(九一)改めねばなりません。
- Ⅲ.智の中に悪とりいれるゆとり出来ませんと、マコト成就しません。愛の中に悪入れてはなりません。
- Ⅳ.永劫の愛は、必ず理解を伴います。愛はヨロコビによって生きます。・ないところ生命栄えません。
- Ⅴ.・から愛と智が生まれます。愛と智の和合から・生れ、また別の・(喜び)から別の愛と智が生まれます。
- Ⅵ.喜びに入る門は、愛と真とありますが、愛からでは誤り易い。ので、真からの道をお勧めします。
- Ⅶ.霊の霊、霊、肉体と和する事で三が道を生みます。肺臓の呼吸、心臓の脈うち、喜びの三つで生命しています。
- 2.まとめ
1.黒鉄の巻 愛に関する文面につきまして
Ⅰ.まつり合わせて・を入れる事で、愛となり、真となります
●愛は愛のみでは愛でないぞ。真は真のみでは真でないぞと申してあらうが。まつり合せて・入れて愛となり真となるのぞ。愛のみ出ると悪となり、真のみ出ると偽(ギ)となることあるぞ。偽(イツワ)りと悪とまつりて善の働きすることあるぞ。心せよ。
愛は愛のみでは愛にはなりません。
真も真のみでは真にはなりません。
まつり合わせて、・を入れることによって愛となり、真となります。
・、とは、歓喜であり、理解、にあります。
愛が、愛のみ出ると悪となることあります。
歓喜なき愛です。それは悲しみの愛ですね。
真が真のみ出ますと、偽(ギ)となることあります。
歓喜なき真は、あったはずの真が無くなったり、前の段階に戻る事があります。
また、偽(イツワリ)と悪とまつりて、善のハタラキする事あります。
Ⅱ.真なき愛の道、悲しみの喜びから生むのは、罪の子となります。その為には、悔い(九一)改めねばなりません。
●学出すから、我出すから行き詰るのぞ。生れ赤児と申すのは学も我も出さん水晶のことぞ。ねり直して澄んだ水晶結構。親の心判ったら手伝ひせねばならん。云はれんさきにするものぢゃと申してあらうが。いつ迄も小便かけてゐてはならんぞ。人間は罪の子でないぞ。喜びの子ぞ。神の子ぞ。神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ。真なき愛の道、悲しみの喜びからも生れることあるぞ。それは罪の子と申すのであるぞ。
真なき愛の道、悲しみの喜びからも生まれることがあります。
それは、悲しみの愛、偽の愛ですが、神の・が抜けたもの、歓喜なきものです。
それが、我良し、慢心、分け隔て。からのものです。
人間は、罪の子(九)ではなく、喜びの子(九)、です。神の子(九)です。
神の子なればこそ、悔い(九一)改めねばならないのです。
我基軸とは、如何に、我良し、慢心、だったか、という事が分かる為です。
だからこそ、親の心が判りましたら、手伝いせねばなりませんし、云はれん先にするもの、となっていくのです。いつまでも、小便かけてゐてはならん、とありますが、一つは環境破壊がこれを指していますし、肉食もそうでしょう。
それには、悔い(九一)改める事です。九の行の初めを改めて下さい。となります。
ですから、学出すと、我出すと行き詰るのです。
生れ赤児と申すのは、学も我の出さない境地の水晶の事です。
ねり直して澄んだ水晶結構となります。
Ⅲ.智の中に悪とりいれるゆとり出来ませんと、マコト成就しません。愛の中に悪入れてはなりません。
●霊ばかりよくてもならん。体ばかりよくてもならん。もちつもたれつの世であるぞ。判らんのは、われが偉いと思ってゐるからぞ。め覚めれば その日その時からよくなる仕組、結構楽し楽しで どんな世でも過ごせるのが神の道。【智の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。智の中には総てを取入れて理解出来るやうに】なってゐるのであるぞ。愛の中に悪入れてはならんぞ。
霊ばかりよくてもなりませんし、体ばかりよくてもなりません。
もちつもたれつの世なのです。霊界と現界がお互い支えているのが、今の三次元世界です。
判らんのは、われが偉いと思ってゐるからです。
周囲の存在が、無であり、より小さな存在程、肉眼で捉えられない存在程、霊界的存在に近づく事が、分かりやすいと思います。
め(六六)醒めれば、その日、その時からよくなる仕組です。
結構楽し楽しで どんな世でも過ごせるのが神の道、です。
この事は、此の道を体験していかないと分からないようになっていますし、改心と共に、1年半程辺りから徐々に判ってきます。まずは、三年です。行き詰りましたら、改心が必要です。
智の中に悪をとり入れるゆとりが出来ませんと、マコト成就しません。
智の中には、総べてを取り入れて理解できるようになっているのです。
この事は、前世ヒーリングをしてみますと分かってきます。
悪を意志し、理解していく事が始まりです。
そうでない事には、悪から助けていく事はできません。
この事に対してブロックしている方も多いですが、これが、分け隔てです。
悪を理解していく事で新たな世界を生み出せる事を忘れてゐるのです。
その原因が囚われであり、更に慢心、我良し、が分け隔てを生み出す元となるのです。
また、愛の中に悪を入れてはならないようになっています。
ですが、愛から入りますと、大抵、我の囚われ、慢心、我良し、分け隔てから、理解する事を止めてしまい、改心ができない状況となっています。こうして、知らず知らずの内に、愛の中に悪を入れている方、結構多いのです。
このようにして、前の段階に戻されていきます。神の・から離れた、我のみですと、苦しみとなり、悲しみの愛となるのです。
ですから、悪を、智の中に入れていく事から世界が変わっていきます。
これ以外に、この道が進んで行くことは無いようです。
Ⅳ.永劫の愛は、必ず理解を伴います。愛はヨロコビによって生きます。・ないところ生命栄えません。
●愛からはなれた理解はないぞ。善からはなれた真理はないぞ。タネなくて芽は出ん道理。人間の智で判らんことは迷信ぢゃと申してゐるが、神界のことは神界で呼吸(イキ)せねば判らんのぢゃ。判らん人間ざから何と申しても神を求めるより、愈々になりたら道ないことぞ。学に囚はれて まだめさめん気の毒がウヨウヨ。気の毒ぢゃなあ。人間は霊人のカタシロになるからこそ養はれてゐるのぢゃ。成長して行くのぢゃ。血は愛によって生き、愛はヨロコビによって生きるのぢゃ。ヨロコビなき所に愛はないのざぞ。・ないところ生命(イノチ)栄えんぞ。
愛からはなれた理解はないのです。
ですから永劫の愛とは、必ず理解を伴います。
善からはなれた真理はありません。
ですから、真理とは、喜びを必ず伴います。
それは、悪、や、苦の理解からです。
ですから、悪、苦のタネなくて芽は出ない様になっています。
あらゆる意味の悪や苦の理解が大切です。
人間の智で判らない事は迷信としていますが、神界のことは神界で呼吸(イキ)せねば判らないのです。
最初は判らない人間だからこそ、何と申しても、神様を求めるより、愈々になりましたら、道がありません。
この道を理解するには、道を生み出す歓喜を理解、体験していく以外ないのです。
ですから、弥栄実践、祓実践、まつり実践、です。あなはち、しきまきや、くにつつみ、です。
そこから、我の改心、洗濯、掃除、が求められるのです。
学に囚われている間は、まだ目を醒ます事はできません。
まだ、めさめん気の毒の方がとても多いと御伝えされています。
人間は霊人のカタシロになるからこそ養われて、成長していくのです。
霊人の理解がどうしても求められるのですね。
ですから、前世ヒーリングは、これらすべてを満たして行くので、どうしても必要なのです。
智は愛によって生きますし、愛はヨロコビ(四六九火)によって生きるのです。
ヨロコビなき処には、愛はありません。ですから、しきまきや、くにつつみ、無から生み出す事が求められるのです。
その元のキの、・ないところ、生命(イノチ)は栄えないようになっています。
Ⅴ.・から愛と智が生まれます。愛と智の和合から・生れ、また別の・(喜び)から別の愛と智が生まれます。
●・から愛と智とが生れると申してあらうが。智と愛との和合によって・が又生れるのぢゃ。・は喜びであるぞ。・の別の・であるぞ。その・から又別の愛と智が生れ、又別の・が喜びとなり、その喜びの愛と智の喜びと結んで、又喜びの・生れるのぢゃ。神は額から入って顔全体に至り、全身に及ぶものであるぞ。
・から愛と智とが生まれるのです。
智と愛との和合によって、又・が生まれます。・は喜びです。
・の別の・からです。
その・から、又別の愛と智が生まれます。
又別の・が喜びとなっていき、その喜びの愛と智の喜びを結んで、又喜びの・が生まれます。
この繰り返しです。
これは新しい文面ですが、神様は、額から入って顔全体に至り、全身に及ぶものでもあるのです。
このようにして顔の相は変わります。
そう言えば、神と融合し、顔が大きく変わる方いましたが、確かに、霊と意志し理解しようとしますと、全身に及ぶところはあるようです。
実際、前世ヒーリングの最中ですが、霊を意志し理解しますと、顔の相が変わる方、結構います。
そういう私も、そう言われる事が多いです。確かにセッションの最中、顔の相が変わったり、若返ったり、同じ人物とは思えないのです。
それは、前世の方が、和していく事で、喜ばれる為なのですね。
中々気付きにくいですが、前世ヒーリング時、双方顔が変わっている時は、大きく喜びが働いている事が多いようです。
Ⅵ.喜びに入る門は、愛と真とありますが、愛からでは誤り易い。ので、真からの道をお勧めします。
●喜びにとけ入るから嬉しいのぞ。喜びから遠ざかるから悲しいのぞ。そんなこと分ってゐると申してゐるが、ほんとに身体に分ってゐまいぞ。喜びに入る門は愛からぢゃ。真からじゃ。二道あるなれど愛から入るのが入り易いが、愛からでは誤り易い。生れてすぐ歩けるものでないぞ。始めから何も彼も出来るものでない。気長に進んで行けよ。内の念と外の念とあるぞ。二つであるぞ。一つであるぞ。三つであるぞ。心大きく、広く天地に放さねば、天地のキを吸ふこと出来んぞ。
喜び(四六九火)に、とけ入るから嬉しいのです。
喜び(四六九火)から遠ざかるから悲しいのです。
そのような事は、分かってゐると申していても、ほんと(火ん十)に身体に分かってゐない、
とお伝えされています。身体の変化もとても大切です。
前世ヒーリングでは、前世から苦しんでゐる思念が変わりましたら、苦しみが抜ける事は非常に多くあります。
この体験がまず大切です。
当初は小さな型出しからですが、これも、規模が大きくなる程に大きな変化が起こっていくようになります。
段階が進みますと、霊性覚醒も始まります。それは何としてでも助けたい、という強い気持ちから始まります。
これは、神様から与えられるようになります。
喜びに入る門は、愛、からです。真、からです。
二道ありますが、愛から入るのは入りやすいですが、愛からでは誤り易い、と伝えています。
それは、人の我の囚われの為に進む事が殆どだからです。
その為に、改心ができない。いう流れから中々外れられなくなります。
愛から入る人の特徴には、我の改心ができない、という方がかなり多かったです。
始めから何もかもできるものではありませんので、気長に進んで下さい。
内の念と外の念とあります。
二つです。二つの存在の念です。最初は、相反する念です。
続いて、一つとなります。それは和す事で、一つとなります。
更に、三つとなります。それは、和すことで、新たな道を生む為に、新たな御自身となるのです。
これが三が道、です。
心大きく、広く天地に放さねば、天地のキを吸ふことできないようになっています。
Ⅶ.霊の霊、霊、肉体と和する事で三が道を生みます。肺臓の呼吸、心臓の脈うち、喜びの三つで生命しています。
●神がうつらぬと申してゐるが、心をやはらかくしてマカセ切れば刻まれるぞ。平かにすれば正しく写り、凸凹(デコボコ)すれば曲ってうつる。神の前に固くなってはならぬ。人間は肉体をもってゐる間でも、その霊は、霊の国に住んで居り、霊の霊は、霊の霊の世界に住んでゐるのであるぞ。この道理よくわきまへよ。愛は脈うってゐるぞ。真は呼吸してゐるぞ。肉体にあっては肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、この二つが一つであって、肉体を生命する。喜びと三つが一つであるのぞ。霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓、よろこびあるぞ。
この文面は、ほぼ全てマンデラ・エフェクト文面ではと思います。
地震の巻でも同様の文面がありましたが、改めて判りやすく伝えている感じです。
神様がうつらない、と申していますが、心をやはらかくしてマカセ切れば刻まれます。
平かにすれば正しく映りますし、凸凹(デコボコ)すれば曲ってうつるようになっています。
これは、素直にしていく事が求められますが、我の改心を進めていく以外ありません。
心やはらかくしてマカセきれば、確かに身も心も刻まれますね。
例えば、今、このブログを書いています私もそうだと思います。
そして、前世ヒーリングの最中もそうです。
ですから、神様の前で固くならないようにして下さい。
人間は、肉体を持ってゐる間でも、その霊は、霊の国に住んでいるのです。
霊の霊は、霊の霊の世界に住んでゐるのです。
●祈りとは意が乗ることぞ。霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となることぞ。
これは、一つ前の黒鉄の巻、第三十二帖にありますが、霊の霊とは、霊にも、その霊が存在しているという事です。この霊の霊、霊、体、三つが和合して、一つの生命となり、これが祈りです。
行じ省み、思念が変わる事で、周囲の三次元世界が変わっていく、という事なのです。
これが、立体に進む、という事です。
霊の霊の詳細については、黒鉄の巻、第三十二帖を読んで下さい。
この道理よくわきまえて下さい。
愛は脈打っています。
真は呼吸しています。
肉体あっては、肺臓は呼吸し(真)、心臓は脈うちます(愛)。
霊界も同様です。
肉体の肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、この二つが一つであって、肉体を生命するようになります。
更に喜びと三つとなり、一つとなります。
また、そこから、霊界も同じです。霊も、霊の心臓、霊の肺臓、よろこび、があります。
2.まとめ
愛は愛のみでは愛にはなりません。
真も真のみでは真にはなりません。
まつり合わせて、・を入れることによって愛となり、真となります。
・、とは、歓喜であり、理解、にあります。
真なき愛の道、悲しみの喜びから生むのは、罪の子となります。
その為には、悔い(九一)改めねばなりません。
智の中に悪とりいれるゆとり出来ませんと、マコト成就しません。
悪を意志し、理解していく事が始まりです。
愛の中に悪入れてはなりません。
ですが、分け隔てから、愛の中に悪入れている方かなり多いです。
このようにして、囚われの世界に進んでゐる方とても多いです。
理解する処から始まっていない為です。
永劫の愛は、必ず理解を伴います。愛はヨロコビによって生きます。
・ないところ生命栄えません。
それは、悪、や、苦の理解からです。
ですから、悪、苦のタネなくて芽は出ない様になっています。
・から愛と智が生まれます。
愛と智の和合から・生れ、また別の・(喜び)から別の愛と智が生まれます。
喜びに入る門は、愛と真とありますが、愛からでは誤り易い。ので、真からの道を進んで下さい。
愛から入るのは入りやすいですが、愛からでは誤り易い理由は、我の囚われから改心が難しい為です。
むしろ囚われから、愛の中に悪を入れている事にも気付かない事が多いです。
霊の霊、霊、肉体と和する事で三が道を生みます。
人の身体は、肺臓の呼吸(真)、心臓の脈うち(愛)、喜びの三つで生命しています。
修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。