無い(七一)に関する文面⑫ 死(四)とは生きること(九十)です

日月神示、道の生み出し方について

引き続き、無い(七一)に関する文面です。

今回のマンデラ・エフェクトは、死とは生きること、
と現れた事です。

死とは住む段階の違ふ場合に起る現象ぞ。死とは生きることぞ。

手前にあります、死とは住む段階の違ふ場合に起る現象ぞ。は以前からありましたが、
この表現であるなら、一回死を迎える、というよりは、住む段階の違ふ場合に起こる現象ですから、

日々、死んで、生きる。という方が解釈として近いかもしれません。

ですから、改心、の重要性が、改めて判ってきますよね。

日々、洗濯、掃除、改心、を進める事が、死んで生きることになります。
そして、四とは、生きるコト(九十)でもあります。

ですから、しきまきや、を起こし続ける事が、生きるコト(九十)でもあるのですね。

今回は、白銀の巻の一文をお伝えしますが、実際、今回の文面が現れた事により、前後の文面もしっくり繋がった印象になりました。

それでは、お伝えしていきますね。

1.白銀の巻(シロガネの巻) 第六帖 死(四)とは生きること(九十)です。

Ⅰ.肉体はウですが、魂は㋰に通じています。元の元の㋰がヨロコビです。

元の元の㋰から(上かっこのム)、(上かっこのウ)の中界を経て、ウの現界に到る悉くの世界が皆人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂は㋰に通じてゐるのであるから、㋰はヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、人間からすれば、人間が土台であるから、神の礎であるから、神しづまれば神人となるのであるから、神界、中界、現界つらぬきて居らねば、マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、マコトの喜びが大神であるから、大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ。・せねばならんぞ。

元の元の㋰から、(上かっこのム)、(上かっこのウ)の中界を経て、ウの現界に到る悉くの世界が皆人間に関係あります。
ここにおける、上かっこ、とは、地が幽界となっているム、ウを、指している解釈が一つありそうです。

肉体はウですが、魂は㋰に通じてゐますから、㋰はヨロコビですから、喜びが人間の本体なのです。
ですから、常々、和した㋰より、㋒としていく事が求められます。

神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国(九二)です。
人間からしますと、人間が土台ですから、神の礎ですから、神しづまれば神人となる、と伝えられています。
ですから、神と和する事が求められます。神とは、あらゆる存在でもありますが、特に、人と和する事が重要です。そして、簡単ではありません。

神界、中界、地界つらぬいていませんと、マコトの和合していませんと、マコトの喜びではないのです。
此の事を理解して、マコトの和合が求められます。

ですが、マコトの喜びが大神です。大神の働きは人間によるものでもあります。
ですから、心(九九六)せねば成らんぞ。・せねば成らんぞ。
と伝えられています。

Ⅱ.天使、天人も、同じく喜びの人間なので、遠くにあるのではなく、同じ所にあります。

天使と云ひ、天人と申すも、みなそれぞれの国の人間であるから、喜びの人間であるから、この道理判りたら、地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じであるから、もちつもたれつであるから、三千世界であるから、地の上に禍あると、天の国にも禍ふのであるから、天の国の生活は地の上に根をつけてゐるのであるから、遠くにあるのでないぞ。同じ所にあるのであるぞ。

天使(・四)と云ひ、天人(・人)と申すも、みなそれぞれの国(九二)の人間ですから、喜びの人間ですから、とあります。皆、喜びの人間です。それは、くにつつみ、から始まるのです。
この道理判りましたら、地の世界と、中の世界と、天の世界とみな同じですから、もちつもたれつ、三千世界である事が判ってきますから、とあります。
くにつつみ、を基軸に進めていきますと、地の世界、中の世界、天の世界、は、皆同じになっていくのです。

地の上にわざわいあると、天のクニにもまがふのであるから、天のクニの生活は地の上に根をつけてゐるのですから、遠くにあるのではありません。同じ所にあるのです。と伝えられています。

これは、日々、和する行を続けていく事で分かってきます。

ですが、人の我基軸ですと、分離傾向となり、バラバラとなりやすい為、この事がより分からなくなっていきます。

Ⅲ.幽界とは、道を外れた九二のことです。地獄無いですが、地獄は、言葉から生むので、地獄の言葉止めて下さい。

幽界と申すのは道を外れた国のことざと知らしてあらうがな。地獄無いと申してあらうがな。このこと間違はんやうに、地獄地獄の言葉、やめて下されよ。言葉からモノ生むのぞ。

幽界と申すのは、道を外れた九二のことだと知らしてある、
と伝えられています。
地獄は元来無いのです。

このこと間違はんやうに、地獄地獄の言葉、やめて下されよ。とあります。
言葉からモノ生むのです。

ですが、人の我基軸ですと、気づかない内に、地獄を選択している事は多々あります。

Ⅳ.人間の心が神に通ずる時は喜びとなり、幽人に通ずる時は悲しみとなります。

只モノが違ふのみであるから、人間の心が神に通ずるときは喜びとなり、幽人に通ずるときは悲しみとなるのであるぞ。

この文面は、以前には無かった文面と見ます。

只、モノが違ふのみですから、人間の心が神に通ずるときは喜びとなり、幽人に通ずるときは悲しみとなるのです。

幽人に通ずると悲しみになる、とハッキリと書かれているのは以前無かったと見ます。

ですから、神に通ずる事が求められます。それには、十、に通ずる事が大切で、一八十(イワト)を開き、〇九十(マコト)が結構です。

三次元の神(八)から、立体に進んだ神(十)へ、そして、くにつつみから神を生み出すこと(〇九十)が大切です。

Ⅴ.あらゆる存在には、通ずる心ありますから、心に自由になり、弥栄あります。

通ずる心あるから心に自由あるのであるぞ。弥栄あるのであるぞ。この道理よくわきまへて下されよ。

どのような方も、通ずる心ありますから、心に自由あります。弥栄あるのです。

此の道理、よくわきまへて下されよ、とあります。

人は、理解しようというのは、あらゆる世界に可能です。
ですから、あらゆる世界に弥栄が可能です。

Ⅵ.天人の死とは、住む段階の違ふ場合に起こる現象です。死(四)とは生きること(九十)です。

天人に結婚もあれば仕事もあるぞ。死も亦あるのであるぞ。死とは住む段階の違ふ場合に起る現象ぞ。死とは生きることぞ。

天人に結婚もあれば、仕事もあります。
死もまたあります。

死とは、住む段階の違ふ場合に起こる現象です。

この後の文面は初めてと見ますが、
死とは生きることとあります。

天人にとっての死とは、改心していく事、と言ってもよいでしょう。
此の事で、天人は、住む段階が違う現象が起こります。

これを生きている人間側からしますと、改心を進めていく、という事になります。
そして、実際、死を迎えなくとも、それは、可能です。

改心していく人間とは、生きる九十、としますと、より分かりやすいでしょう。

生きた人間側からしますと、改心が進みますと、周囲の世界にドンドンとマンデラ・エフェクトが起こります。
この事が起こっていれば、死(四)んで生きる事ができている、という事です。

これが神学です。この事は、体験しないと判りません。
この時、神界・幽界・現界の三界。天界・中界・地界の三界。を貫き、和する体験が必要、という事です。

それは、前世ヒーリングで可能です。

Ⅶ.呼吸するものは、皆、かみかかってゐます。

人間は皆、かみかかってゐるのであるぞ。かみかかってゐないもの一人も居らんのぢゃ。かみかからんものは呼吸せんのぢゃ。このこと判りて居らうがな。

人間はみな、かみかかってゐるのです。
かみかかってゐないもの、一人もおらん、とあります。

かみかからんものは、呼吸しないのです。
このこと判りておろがな。とあります。

ですから、呼吸するものは、かみかかる、とも言えます。
ですから、この世、全ての生命体は、皆神様、とも言えます。
更には、モノ、まで含みます。モノも息しています。

Ⅷ.霊人は、人間の心を肉体として住んでゐます。その中に、又住んでゐます。

霊人は人間の心の中に住んでゐるのであるぞ。心を肉体として住んでゐるのぢゃ。その中に又住んでゐるのぢゃ。ひらたう説いて聞かしてゐるのぢゃ。

霊人は人間の心の中に住んでゐるのです。

心を肉体として住んでゐるのです。

その中に又住んでゐるのです。

Ⅸ.霊人と和合してゐるから、かみかかりであるから、三千世界、神界、幽界も判ります。

霊人と和合してゐるから、かみかかりであるからこそ、三千世界に働き栄えるのぢゃぞ。神界のことも判る道理ぢゃ。幽界のことも判る道理ぢゃ。

霊人と和合してゐるから、かみかかりであるからこそ、三千世界にはたらき栄えます。

霊人は、心を肉体としていますから、実は、地上人から、常々交信は可能、和する事は可能、という事です。
そして、人と和する事とは、霊人と和する事とも似ている部分もあります。

ここから、神界のことも判るのです。
また、幽界のことも判るのです。

Ⅹ.人間のかみかかりは、幽界のカミかかりでろくなことありません。かみかかりと判らんかみかかりが結構、まことです。

人間の云ふかみかかりとは幽界のカミかかりぢゃ。ろくなことないのぢゃ。かみかかりにも、かみかかりと判らんかみかかり結構ぢゃなあ。まことぢゃなあと知らしてあるのに未だ判らんのか。

人間の云ふかみかかりとは、幽界のカミかかり、です。
それは、ろくなことない、とまで伝えられています。

かみかかりにも、かみかかりと判らんかみかかりが結構です。
それが、まこと、で知らしてあるのですが、いまだ判らんのか。と伝えられています。

それには、御神示に書いてありますことを素直に行じていきますと、改心していきますと、判るようになっていきます。それは、二人で進めていく事は、必ず求められます。

2.まとめ

肉体はウですが、魂は㋰に通じています。元の元の㋰がヨロコビです。大神様です。

常々、和した㋰より、㋒としていく事が求められます。神と和する事が求められます。
神界、中界、地界つらぬいていませんと、マコトの和合していませんと、マコトの喜びではないのです。

心(九九六)せねば成らんぞ。・せねば成らんぞ。
と伝えられています。

天使、天人も、同じく喜びの人間なので、遠くにあるのではなく、同じ所にあります。
地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じ、もちつもたれつの、三千世界です。

幽界とは、道を外れた九二のことです。
地獄無いですが、地獄は、言葉から生むので、地獄の言葉止めて下さい。
と伝えられています。

人間の心が神(十)に通ずる時は喜びとなり、幽人(我)に通ずる時は悲しみとなります。

あらゆる存在には、通ずる心ありますから、心に自由になり、弥栄あります。
人は、理解しようというのは、あらゆる世界に可能です。
ですから、あらゆる世界に弥栄が可能です。

天人の死とは、住む段階の違ふ場合に起こる現象です。死(四)とは生きること(九十)です。
生きている人間からしますと、改心が進むと、マンデラ・エフェクトが起こります。
これが、生きて死ぬ境地です。四んで生きるコト(九十)です。

呼吸するものは、皆、かみかかってゐます。
この世、全ての生命体、更にモノは、皆神様、とも言えます。

霊人は、人間の心を肉体として住んでゐます。その中に、又住んでゐます。
霊人と和合してゐるから、かみかかりであるから、三千世界、神界、幽界も判ります。

人間のかみかかりは、幽界のカミかかりでろくなことありません。かみかかりと判らんかみかかりが結構、まことです。

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

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