弥栄、に関する文面14に進みます。
今回、は地震の巻 第八帖 その2です。
今回のマンデラ・エフェクト文面は、前半に集中しています。
前半は、新人についての説明がある為に、その後の文面は、以前から同じであっても、その意味合いが変わってきています。
死を迎えるにしても、新人として進むかどうかが大切であり、三千世界の実相、最後の審判の境地の理解、体験が必要で、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得ます。これは前回御伝えした通りです。
それには、日々、大神様の御心に沿い、仕事を五人分、千人分と進め、我を洗濯、掃除、改心し続け、新たな世界を生み出し続けていく先にあります。
その結果、新人の死後は、生前時そのままで、大神様の質と性をうけつぎ呼吸します。
また、根本的なものは何一つ失わず生活している状態となります。
このように、新人の生活、について、愈々伝え始めています。
それでは、弥栄、に関する文面14をお伝えしますね。
- 1.地震の巻 第八帖 その2 新人の死後は、生前時そのままで、大神様の質と性をうけつぎ呼吸します。
- Ⅰ.新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失いません。
- Ⅱ.新人の地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてても、根本的なものは何一つ失わず生活しています。
- Ⅲ.新人の死後は、大歓喜なる大神様の中において、大神様の質と性をうけつぎ呼吸していますので、大いなる喜び、となります。
- Ⅳ.総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する為、歓喜よりはなれた信仰はなく、真理はなく、生命はありません。
- Ⅴ.霊人の地上人としての誕生、地上人が霊界に入るのは、死ではなく、弥栄なる誕生です。
- Ⅵ.歓喜とは行為であり、行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではありません。
- Ⅶ.地上人は、行為によって歓喜となり、形体を為し、弥栄します。
- 2.まとめ
1.地震の巻 第八帖 その2 新人の死後は、生前時そのままで、大神様の質と性をうけつぎ呼吸します。
Ⅰ.新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失いません。
●しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである。
内奥の神智にめざめた後、新天新地に住み、新人と生れても、その以前の自分の総てを失う訳ではありません。
只、その一(位置)を転換されるのみです。
ですから、まず、内奥の神智に目覚める事が大切です。
それには、五人分の行をまず実践し、弥栄実践、祓実践、まつり実践と共に、我の洗濯、掃除、改心、が始まりです。それには、千人分の行、更には、千人力の理解、体験が求められます。
Ⅱ.新人の地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてても、根本的なものは何一つ失わず生活しています。
●地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。
新人の場合、地上人が死後、物質的に、濃厚なる部分をぬぎすてますが、その根本的なものは何一つとして失わずに生活する、とあります。
その状態よりも、なお一層、そのままであって、何等変化もないと思える程です。
同じであって、同じではない境地が、理解、体験、できているかどうかです。
それは、内奥の神智にめざめる事が大切で、此の道に進んでの理解、体験が求められます。
Ⅲ.新人の死後は、大歓喜なる大神様の中において、大神様の質と性をうけつぎ呼吸していますので、大いなる喜び、となります。
●蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。
ウジが蝶になるごとく弥栄えるものであって、それは大いなる喜びです。
何故ならば、大歓喜なる大神の中において、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸している為です。
ですが、それは、新人、になったという前提の話だったのですね。
これは以前にはありませんでした。
Ⅳ.総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する為、歓喜よりはなれた信仰はなく、真理はなく、生命はありません。
●総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。
総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為します。
歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない、のです。
故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はないのです。
ですが、新人の理解、体験をしますと、この意味もまた変わってきます。
一切が歓喜となり、広く深く判ってきますね。
Ⅴ.霊人の地上人としての誕生、地上人が霊界に入るのは、死ではなく、弥栄なる誕生です。
●生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。
生前の霊人が地上人として生れてくるのも、死ではなく、
地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生でしかないのです。
これも、新人となりますと、永遠に喜びになりますよね。
Ⅵ.歓喜とは行為であり、行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではありません。
●歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。只考えたり意志するのみでは萌え出でない。生命しない。只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。
歓喜は行為となります。
行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではないのです。
只考えたり意志するのみでは、萌え出でないのです。
生命もしないのです。
この為に、只、意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない、と伝えられています。
霊界においては、意志することは直ちに行為となるのです。
ですから、三次元世界でも、この事を合致させ、心・口・行、の一致が求められます。
この継続により、御神示と共に、神人として進む事で、新人の世界観の理解、体験をしていく流れとなります。
Ⅶ.地上人は、行為によって歓喜となり、形体を為し、弥栄します。
●地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。
地上人にありては、物質によりて、物質の中にその意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を成し、弥栄えます。
ですから、まず、行為として始める事が求められます。それが弥栄の始まります。
また、行為として始めない事には、何事も始まらないようになっています。
ですから、この三次元世界では、行為する事。弥栄の行為、心・口・行、一致の行為が求められます。
2.まとめ
死を迎えるにしても、新人として進むかどうかが大切であり、三千世界の実相、最後の審判の境地の理解、体験が必要で、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得ます。
それには、日々、大神様の御心に沿い、仕事を五人分、千人分と進め、我を洗濯、掃除、改心し続け、新たな世界を生み出し続けていく先にあります。
新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失いません。
只、その一(位置)を転換されるのみです。
新人の地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてても、根本的なものは何一つ失わず生活しています。
新人の死後は、大歓喜なる大神様の中において、大神様の質と性をうけつぎ呼吸していますので、大いなる喜び、となります。
総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する為、歓喜よりはなれた信仰はなく、真理はなく、生命はありません。
霊人の地上人としての誕生、地上人が霊界に入るのは、死ではなく、弥栄なる誕生です。
歓喜とは行為であり、行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではありません。
地上人は、行為によって歓喜となり、形体を為し、弥栄します。
この為に、三次元世界でも、心・口・行、の一致が求められます。
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