よろこび、に関する文面④ 世界の九分九分九厘。あるにあられんことが、いよいよ近うなってゐます

マンデラ・エフェクト文面(2025年6月24日~

よろこび、に関する文面④に進みます。

今回の文面は、夏の巻 第二帖、第八帖、秋の巻 第二帖、第八帖、の4つの文面です。

今回は短めの文面が多く、夏の巻、秋の巻、それぞれ、第二帖、第八帖、が続くのも面白いですが、
それでも、それぞれ、マンデラ・エフェクトが起こってゐます。

夏の巻 第二帖、では、〇から・に行くのはマコトは逆なので、マコト(〇九十)のことは判りません。と伝えられており、元わからずに、生きのいのちの判るはずがなく、今の世は逆様、先祖から、原因から正していかなならん、と伝えられてゐます。

更に、マコトの理解者には甘露の水、と伝えられており、甘露の水は、仏教用語では不老不死の水、の意味があります。愈々の局面を伝えられてゐますね。

夏の巻 第八帖では、つきんよろこびは常に神様からきます。という伝え方をされています。
これも、初めての文面と見ます。(似たような表現はあったかもしれませんが)

秋の巻 第二帖では、人民は、神のよろこびを土でつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてうつして、神の中に人民をイキさしてゐます。と、神が人を作ったその内容を伝えられてゐます。

更には、 世界の九分九分九厘。最終局面、あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなっている、愈々の目前を伝えられてゐます。

秋の巻 第八帖では、よろこびから生まれる道理わかれば何事もありやか、一切は、よろこびから生み出せる境地を伝えられてゐます。

何か、全般的に最終局面に近づいて来てゐる感があります。もう、愈々が此の後始まっていくと見ます。

それでは、よろこび、に関する文面④をお伝えしますね。

1.夏の巻 第二帖 〇から・に行くのはマコトは逆なので、マコト(〇九十)のことは判りません。先祖から、原因から正していかなならんようになっています。

Ⅰ.・がよろこびです。また、・の・は、ムでもあります。

・がよろこびであるぞ。また・の・はムでもあるぞ。

これは、以前、どこかからか生まれたマンデラ・エフェクト文面だったと見ます。

・がよろこびです。神の御心ですね。

また、・の・はムでもあります。

ですから、無限に生み出す元となります。

Ⅱ.内から外に向かって行くのが⦿のやり方、外から内に向かって行くのが、がいこくのやり方です。

内から外に向って行くのが⦿のやり方、外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。

内から外に向かって行くのが、⦿のやり方、です。
これは、先に心の内に向かい、その中にあるものに、外へと見出す順、という感じだと思います。

外から内に向かって行くのが、がいこくのやり方です。

御自身の心の意識を外に向けて、その中の内に向き合う順です。
外は、ウソが多いので、その中にあります、内もウソが多いのです。

Ⅲ.〇から・に行くのはマコトは逆なので、マコト(〇九十)のことは判りません。外から行く宗教、哲学、科学が元を判らんようにしてゐます。

〇から・に行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。

この文面は初めてと見ます。(表現が変わったと見ます)

〇から・に行くのは、マコトが逆ですから、マコトのことは判らん、とあります。
外から行く宗教や、哲学、科学が元を判らなくしてゐるのです。

まずは、思念界から思念を変えていくのが早いでしょう。

生前からの囚われ、を一段一段無くしていく事が求められます。

Ⅳ.元わからずに、生きのいのちの判るはずありません。今の世は逆様です。先祖から、原因から正していかなならんようになっています。

元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。今の世は逆様ぢゃ。先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ。

こちらは、初めての文面、と見ます。

元わからんで、生きのいのちの判るはずがない、と伝えられてゐます。

今の世は逆様です。
先祖から正して下さい。

原因から正して行かなならんのです。

ですから、思念界から変える行は、非常に重要なのですね。

Ⅴ.⦿から出て、・にかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方です。

⦿から出て・にかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方であるぞ。マコトの理解者には甘露の水ぞ。

⦿から出て、・にかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方です。

⦿から出て、・にかへるので、無限より出て、有限に形します。
有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方です。

マコトの理解者には甘露の水、です。

甘露の水、とは、仏教では、不老不死の水という意味があるようです。

2.夏の巻 第八帖 つきんよろこびは常に神様からきます。神様から、・から、周囲に生み出して下さい。

Ⅰ.見へるものから来る幸福には限ります。ですが、見えんものから来る幸福は無限です。

見へるものから来る幸福には限りがあるが、見えんものから来る幸福は無限ぞ。

見へるものから来る幸福には限りがあります。

ですが、見えんものから来る幸福は無限に続きます。

Ⅱ.つきんよろこびは常に神様からきます。

つきんよろこびは常に神から。

こちらは、新たに出て来た文面と見ます。

つきんよろこびは常に神様から来ます。
ですから、神様を、心の内から見出し、周囲に生み出して下さい。

3.秋の巻 第二帖 世界の九分九分九厘。最終局面、あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなってゐます

Ⅰ.人民は、神のよろこびを土でつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてうつして、神の中に人民をイキさしてゐます。

人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。

この文面もマンデラ・エフェクト、と見ます。

人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分かれて他人行儀になる、とあります。

神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのです。

ですから、人には、神の息吹、歓喜が常々入ってゐるのです。

神が土で作ったその在り方そのものを伝えられているのは初めて、と見ます。

Ⅱ.マコトの親子は、木の股や土から生まれたのではありません。

取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ。

取違ひせんように致しくれよ、とあります。

親と子と申してある通りです。
木の股や土から生まれたのではマコトの親子ではないのです。

マコトの親子、という単語は初めて、と見ます。

神のよろこびでの土から、神の歓喜を魂としてうつして、神の中に人民をイキさしたものです。

Ⅲ.世界の九分九分九厘。最終局面、あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなってゐます。

世界の九分九分九厘であるぞ。あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなったぞ。

これもマンデラ・エフェクト文面と見ます。

世界の九分九分九厘です。最終的局面に来た事をお伝えしていますね。

あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなってゐます。

御自身の心・口・行に応じ、我の洗濯、掃除、改心、に応じた世界へと進みます。

Ⅳ.外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのは、善と悪でなく、内と外です。平面世界の認識です。

外は外にあり、内は内にあり、外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのであるが、それは善と悪でないぞ。内と外であるぞ。

外は外にあり、内は内にあり、外は内を悪と見て、内は外を悪として考へるのですが、
それは善と悪ではありません。

内と外、です。生み出しておらず、平面世界の認識の段階です。

Ⅴ.外のよろこび、内のよろこび、が和して、一となります。始め、元です。

外には外のよろこび、内には内のよろこびあるぞ。二つが和して一となるぞ。一が始めぞ、元ぞ。和して動き、動いて和せよ。悪を悪と見るのが悪。

外には外のよろこび、内には内のよろこび、があります。

二つが和して一となります。

一が始めです。元です。

和して動き、動いて和せよ、とあります。

悪を悪と見るのが悪です。
ですが、まだまだ、平面に囚われ、悪を悪と見る方が多いです。

4.秋の巻 第八帖 よろこびから生まれる道理わかれば何事もありやか、です。

Ⅰ.何事もよろこびから始まります。結果から又よろこび生まれます

何事もよろこびからぞ。結果から又よろこび生れるぞ。

似たような文面はあったと見ますが、表現が変わったマンデラ・エフェクト、と見ます。

何事もよろこびから始まります。

結果から又よろこびが生れます。

Ⅱ.よろこびから生まれる道理わかれば何事もありやか、です。

この道理わかれば何事もありやか。

よろこびから生まれる道理が判りましたら、
何事もありやかとなります。

それは、和するところから始まります。
更には、順を正して行きます。

この上で、弥栄実践、祓実践、まつり実践と共に、行じ、省み、我を洗濯、掃除、改心を進めて行きます。

5.まとめ

・がよろこびです。また、・の・は、ムでもあります。

内から外に向かって行くのが⦿のやり方、外から内に向かって行くのが、がいこくのやり方です。
先に心の内に向かい、その中にあるものに、外へと見出す順、と進めるのが⦿のやり方です。
御自身の心の意識を外に向けて、その中の内に向き合う順が、囚われ、がいこくのやり方です。

〇から・に行くのはマコトは逆なので、マコト(〇九十)のことは判りません。外から行く宗教、哲学、科学が元を判らんようにしてゐます。

元わからずに、生きのいのちの判るはずありません。
今の世は逆様です。先祖から、原因から正していかなならんようになっています。

⦿から出て、・にかへり、無限より出て有限に形し、
有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方です。

見へるものから来る幸福には限ります。ですが、見えんものから来る幸福は無限です。
つきんよろこびは常に神様からきます。

人民は、神のよろこびを土でつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてうつして、神の中に人民をイキさしてゐます。

マコトの親子は、木の股や土から生まれたのではありません。

世界の九分九分九厘。最終局面、あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなってゐます。

外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのは、善と悪でなく、内と外です。平面世界の認識です。

外のよろこび、内のよろこび、が和して、一となります。始め、元です。

何事もよろこびから始まります。結果から又よろこび生まれます。

よろこびから生まれる道理わかれば何事もありやか、です。

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