喜び、に関する文面⑨ 理(ミチ)(三千)ゆくところ喜びがあり、病治り、金も出て、おかげあります

マンデラ・エフェクト文面(2025年6月24日~

喜び、に関する文面⑨に進みます。

今回は、春の巻 第四十一帖、第五十六帖、の二つの文面です。

今回も、全般的にマンデラ・エフェクトは、結構に起こってゐます。

第四十一帖、では、
天には天の道、地には地の道、人民には人民の道、同じ道ですが違ひます。とまずお伝えされています。
道を、地、人民、にうつす時はそれぞれの約束に従ひ、その約束は神でも破れません。同じと思ふのが悪の教、考へ方、と伝えられてゐます。それぞれの道がまずあるのです。

上からくるものは光で、本来影ありませんが、動くから生まれます。と以前ありましたが、
それが影でない影、悪でない悪、とお伝えされています。

天、地、神、人民、動物、それぞれの自由があり、その性の高さ、清さ、大きさにより、それぞれ制限された自由があります。その自由あれば動き、自由とは弥栄である事、を伝えられてゐます。

その動きが、御用の善となり、御用の悪となる事を伝えられ、
悪にくむは外道の善、と伝えられ、それが外道の悪を生む事、を伝えられてゐます。

光はあらゆる存在から出てゐますが、喜びの度に正比例するので、小さい生命からの光は判らないようになってゐます。と、第四十一帖、では、かなりのマンデラ・エフェクト、を起こしてゐます。

第五十六帖、では、
行く水にも雲にも咲く花にも、神の御心(三こころ)があり、掃除すれば判る、とまず伝えられてゐます。

理(ミチ)(三千)ゆくところ喜びがあり、病治り、金も出てきて、おかげあります。喜びが神、と伝えられ、以前ですと、金もうけはできなさそうな文面しかなかった記憶ですが、今回は、金もうけできそうなそのような主旨の文面、と変わっています。

タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシがあると、タテ、ヨコについて、その内容がより詳細化しています

それでは、喜び、に関する文面⑨をお伝えしますね。

1.春の巻 第四十一帖 天、地、神、人民、動物、それぞれの自由があり、自由あれば動き、自由とは弥栄です。悪にくむは外道の善、です。それが外道の悪を生みます。

Ⅰ.天には天の道、地には地の道、人民には人民の道、同じ道ですが違ひます。

天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。同じ道であるが違ふのぞ。

早速、マンデラ・エフェクト文面です。

天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あります。

同じ道ですが、違ふのです。
それぞれの道が存在しています。

Ⅱ.道を、地、人民、にうつす時はそれぞれの約束に従ひ、その約束は神でも破れません。同じと思ふのが悪の教、考へ方です。

地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのぞ。約束は神でも破れんのであるぞ。次元違ふのであるから違ってくるぞ。違ふのが真実であるぞ。それを同じに説いたのが悪の教。同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ。

地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのです。

約束は神でも破れんのです。
次元はそれぞれ違って来るので、違ってきます。

それぞれ、違ふのが真実です。

それを同じに説いたのが悪の教、であり、同じと思ふのが悪の考へ方です。

Ⅲ.上からくるものは光で、本来影ありませんが、動くから生まれます。それが影でない影、悪でない悪です。

上から来るものは光となって流れてくるのざ。光に本来影はないのであるが、動くから影がうまれる。それを影でない影と申すぞ。悪でない悪あると申してあろうがな。

上から来るものは、光となって流れてきます。

光に本来影はないのですが、動く為に影が生れます。
それが影でない影、とお伝えされています。
この、影でない影、という表現の部分は、初めて、と見ます。

それが故に、悪でない悪があるのです。

ちなみに、この動く事により、必ず悪が生れます。
それは、過去、未来、現在、が生れるという事でもあり、幽界、神界、現界が生れるという事でもあります。

Ⅳ.天、地、神、人民、動物、それぞれの自由があり、その性の高さ、清さ、大きさにより、それぞれ制限された自由があります。自由あれば動き、自由とは弥栄です。

天には天の自由、地には地の自由、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。その性の高さ、清さ、大きさなどによって、それぞれの制限された自由あるぞ。自由あればこそ動くぞ。自由とは弥栄のこと。

天には天の自由、地には地の自由、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、それぞれの自由あります。

その性の高さ、清さ、大きさなどによって、それぞれの制限された自由があります。
自由あればこそ動きます。自由とは弥栄の事です。

この流れから、人民の自由はあるのですが、更には、国によっての自由に差があり、市町村ごとに差があり、突き詰めますと、個々に差があり、それぞれの自由があります。

Ⅴ.光に向かう事で、真、善、美、愛となり、又そのうらの、疑、悪、醜、憎となり現はれます。御用の善となり、御用の悪となります。

光は神から人民に与へられてゐる。光に向かふから照らされる。光は、真、善、美、愛となり、又そのうらの、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。御用の善となり、御用の悪となる。

光は、神から人民に与へられてゐます。
光に向かうから照らされます。

光は、真、善、美、愛となり、又そのうらの、疑、悪、醜、憎となり現はれるようになっています。
それが、御用の善となり、御用の悪となります。

Ⅵ.悪にくむは外道の善、です。それが外道の悪を生みます。

悪にくむは外道の善、外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界と申してあらう。その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのざ。善にも外道あるぞ。心得よ。

悪にくむは外道の善、となります。この部分だけ、マンデラ・エフェクト文面です。
悪にくむが外道の善と、外道の善を明確にしたのは初めて、と見ます。

外道の善とは、此の世で言う所の人民の善、には多く該当します。

外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界、とあります。

その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となります。

外道の善は、人民界ならでは、我、により、それが、我よしが故、和す意識が前提でない為、
凸凹となる為に、霊界では幽界化するのです。

その幽界が、また人民界にうつる事で、神の御心に反しながらも、大多数であれば、それが概ね外道の善となるのです。

その外道の善があるからこそ、外道の悪が生れる流れとなるのです。

このように、善にも外道があります。
それが、11の囚われを生み(他にもまだまだありますが)、その原因が6つの慢心にあります。

Ⅶ.光はあらゆる存在から出てゐますが、喜びの度に正比例するので、小さい生命からの光は判らないようになってゐます。

光は天のみでなく、地からも人民からも、すべて生命あるものから出てゐるのであるが、その喜びの度に正比例してのものであるから、小さい生命からの光は判らんのであるぞ。

光は天のみでなく、地からも人民からも、すべて生命あるものから出てゐるのですが、その喜びの度に正比例してのものですから、小さい生命からの光は判らんのです。

ですが、喜びは、個体差が大いにあります。
同じ人民であっても、喜びの大小はありますし、動物、植物、キン、であっても喜びの大小があります。
そして、同じ状況に対峙しても、天国に感じる方もいれば、地獄に感じる方も居ます。

一般的には小さい生命からの喜びは判りにくいのですが、個体差はかなりある事も忘れてはなりません。

ですから、できる所より、喜びを無限に拡大していく事が求められます。

2.春の巻 第五十六帖 理(ミチ)(三千)ゆくところ喜びがあり、病治り、金も出てきて、おかげあります。喜びが神です。

Ⅰ.行く水にも雲にも咲く花にも、神の御心(三こころ)があります。掃除すれば判ります。

行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心あるぞ。それ見る目ないからわからんのぢゃ。掃除すれば判る。掃除結構。

こちらも出だしからマンデラ・エフェクト、と見ます。

行く水にも雲にも咲く花にも、神の御心(三こころ)があります。
それを見る目ないとわからんようになってしまうのです。

あらゆる存在、水、雲、花の思念、心を理解して下さい。

御自身の心、我を掃除すれば判ります。
掃除結構です。

どのような存在にも神の御心(三九九六)があるのです。

御心とは、三が道をくにつつみの二二から無を生み出す。
三界和合をくにつつみから無を生み出す。

といったものがあります。

ですから、行く水、雲、咲く花、皆、三界和合、三が道を生み出す元は存在しています。

Ⅱ.拝むは拝まんよりはましですが、拝んでばかりでは、病気は治らず、金はもうからんようになってゐます。

拝むは拝まんよりはましであるぞ。しかし拝んでばかりでは病気は治らん。金はもうからん。拝むばかりで金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひぞ。

三が道、三界和合が判らなくても、拝むは、拝まんよりはましです。

しかし、拝んでばかりでは病気は治りません。
また、金はもうかりません。

拝むばかりで、金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひ、とお伝えされています。

ですが、この文面の表現の仕方も初めてと見ますが(似たような内容は以前ありましたが)、理に進む事により、金もうけできる段階があるようです。

Ⅲ.理(ミチ)(三千)ゆくところ喜びがあり、病治り、金も出てきて、おかげあります。喜びが神です。

理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)ゆくところ喜びあるぞ。喜びあるから病気も治るのぢゃ。金も出てくるのぢゃ。おかげあるのぢゃ。喜び神ぢゃ。

理(ミチ)にいそしんで下さい。

理(ミチ)ゆくところ喜びがあります。

喜びがあるから病気も治るのです。金も出てきます。
おかげがあります。喜びが神です。

Ⅳ.タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあります。

タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ。

この文面も初めてです。タテとヨコの関係が詳細になってきています。

タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあるのです。

タテ(十、四四)は霊界、ヨコ(四九)は地の世界(現界)です。

3.まとめ

天には天の道、地には地の道、人民には人民の道、同じ道ですが違ひます。
それぞれの道が存在しています。

道を、地、人民、にうつす時はそれぞれの約束に従ひ、その約束は神でも破れません。それぞれの世界の約束を同じと思ふのが悪の教、考へ方です。

上からくるものは光で、本来影ありませんが、動くから生まれます。
それが影でない影、悪でない悪です。

天、地、神、人民、動物、それぞれの自由があり、その性の高さ、清さ、大きさにより、それぞれ制限された自由があります。自由あれば動き、自由とは弥栄です。

光に向かう事で、真、善、美、愛となり、又そのうらの、疑、悪、醜、憎となり現はれます。御用の善となり、御用の悪となります。

悪にくむは外道の善、です。それが外道の悪を生みます。

光はあらゆる存在から出てゐますが、喜びの度に正比例するので、小さい生命からの光は判らないようになってゐます。

行く水にも雲にも咲く花にも、神の御心(三こころ)があります。
掃除すれば判ります。

拝むは拝まんよりはましですが、拝んでばかりでは、病気は治らず、金はもうからんようになってゐます。
拝むばかりで、金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひ、です。
ですが、理に進む事により、金もうけできる段階があるようです。

理(ミチ)(三千)ゆくところ喜びがあり、病治り、金も出てきて、おかげあります。喜びが神です。

タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあります。

タテ(十、四四)は霊界、ヨコ(四九)は地の世界(現界)です。

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

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