地震の巻 愛に関する文面➄ 第六帖 霊人の弥栄に向け、地上人の対処の仕方について

日月神示、道の生み出し方について

引き続き、地震の巻を御伝えします。

どうも、
地震の巻を全て理解しておく段階、時節に来ているようです。
以前では、理解しにくかった地震の巻、今では、かなり分かりやすくなってきています。

第六帖では、此の道に進んできている方、思念界を変える行をされてきている方には、霊人の弥栄の仕方について分かる内容となってきています。

人間には霊界が理解しにくい理由。一方で、霊人が地上界を理解しにくい理由が伝えられていますが、それも、此の道に進んでいる方には、難なく対処が可能となっていきます。

仮に相手が、邪霊、邪鬼であっても、対処が可能です。

それでは、地震の巻 第六帖、霊界の世界だけでなく、思念界の変え方と合わせて、御伝えしていきますね。

1.地震の巻 愛に関する文面➄ 第六帖 霊人の弥栄に向け、地上人の対処の仕方について

Ⅰ.霊界人が向いている方向の北は、中心であり、歓喜の中の歓喜であり、・です。

霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。中心は、歓喜の中の歓喜である。それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。

霊界人では、その向いている方向が北です。

それは、地上人の言う所の北ではなく、中心、になります。
中心とは、歓喜の中の歓喜です。
それは、・、です。

それを基として、前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのです。

ここから、北から来るぞ。の立体の意味が判ってきたと思います。
北とは、キ田であり、キT、であり、キの元、・、なのです。

そして、キ田から思念界を変えない方は、北から戦争が始まる世界へと移行する、という事なのです。

このように、霊界人は、地上人が見て、どの方向に向かっていようと、その向かっている方向が中心、である事を理解する事が大切です。

Ⅱ.霊人達は、常に前方からの光を受け、歓喜を受け、それは、絶えざる愛であり、真理であり、生長し、生命しています。

故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。

この為に、霊人たちは、常に、前方から光を受けていますし、歓喜を与えられています。

それは、絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって、霊人達は生長し、生命しているのです。

要するに、前方からの光、歓喜とは、霊人達の脈拍の根底、根本を成すものとなります。

ですから、霊人と話す際には、心の刺さる順、興味を持つ順、反応する順、理解できる順に伝えていかないと進まないようになっているのです。

Ⅲ.霊人がそれぞれ異なった方向に進んでいるように見えても、各々、独立し、障害なく、進んでいます。

地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。各々が独立していて、他からの障害をうけない。

地上人から見て、その霊人達が、各々異なった方向にむかっていても、同じく、それぞれの中心歓喜に向かって座していますし、向かって進んでいます。

その霊人達は、上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して地上人のあり方のように、霊人達には障害となりません。

各々独立している為です。

霊人の世界では、それぞれの世界観で弥栄しているので、三次元世界のようなトラブルが無い一面はあり、羨ましく感じる部分もあるかもしれませんが、一方で、霊人は霊界の中のみからでは、その世界しか知らない為、改心が非常に難しく、この為に、立体に進みにくい事があるのです。

だからこそ、この三次元世界より、相手を意志し、理解し、思念を変えていく事で、霊人を立体の道に進めていく事が求められるのです。

更には、霊人には、三次元世界より見た立体だけでなく、霊人達に、理解、体験から立体の自覚をして頂く流れを生み出す事が大切です。

Ⅳ.霊人の歓喜は、額で、身体全身を集約し捉えます。

しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。

霊人達はそれぞれ独立していても、密接な関係性にはおかれていて全然別な存在ではありません。
各自の眼前に、それ相応の光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜があります。

霊人のその感知の仕方ですが、霊人たちは目でみるものではなく、額で見て、額で感じ、受け入れるものです。
その場合の額とは、身体全体を集約した額です。

霊人は、額で受け入れるのですね。
地上人であれば、霊界とは、天頂からのやり取りをする方が多いと思います。
そういう私もそうです。

ですが、額でやり取りする方もやはり居るので、段階が進むとそれが可能になっていきます。
私自身も僅かながらありますし、大抵、誰もが僅かながらでもあるようです。

天頂からのやり取りも、段階が進んでいくと研ぎ澄まされるように、額も同じようです。
鍛えていく、使っていくと使えるようになっていきます。

その使える元となるのは、神の御心に沿っていくのが一番で、日々の思念、そして、心・口・行。
特に三次元世界では、行動にどれだけ現わして行くかです。

地上人においても、その内的真実のものは額でのみ見得るもののようです。

私自身、この文面に直面した今、今後、これを練習していこうと思います。
天頂やり取りとはまた別の能力です。額で捉える練習です。

地上人において、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものでしかありません。

映像としては真実ですが、第一義的真理にはならない処があります。

Ⅴ.地上人の肉眼に見えたものが、そのまま霊界に存在するとは決まっていません。

故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。

故に、地上人の肉眼に見えたものが、そのまま霊界に存在する訳ではありません。

内質的には、同一ですが、現れ方、位置においては相違するのです。

例えば、ダイヤを見た時、見え方は人は同じに見えると見ますが、
ある人から見れば美しい存在。
ある人から見れば、不吉な存在。
として見えるかもしれません。
死の宝石(身に付けたら近い内に不幸が起こるもの)なんかそうだと思います。

これは、霊人からですと、その見え方は、思念でキャッチし、死の宝石なら、不吉な存在、とすぐ分かるかもしれません。

同じような事例で言えば、例えば、広い4LDKのマンションがあったとします。
ですが、何故か自殺者が出るようなマンションでは、その情報を知っていあら、不吉に捉える方は結構多いですが、その情報を知らなければ、単なる4LDK、素敵なマンションと捉える方が多いと見います。

ですが、霊人達は、住む場所ではないでしょう。と捉える方が、そのような情報無くても判ってゐる方多いかもしれません。

同じ物質であっても、エネルギー体の構成、思念が、全く違うのですが、この辺りは、霊人達の方が敏感かもしれません。

このように、霊界人は現実界を理解するに苦しみますし、地上人は霊界の事を理解するのに苦しみます。

Ⅵ.邪霊でも、それ相当の歓喜、真実、生活があります。

●霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。

霊人の中には、太陽を最も位、と感じて太陽を背を向けて呼吸し、生長しているという、地上人には、理解が困難な事が多いのです。

邪霊、がそうですが、これらの霊人は地上人の多くと反対のものを感じ、かつ受け入れて生活しています。

ですが、そこにも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活があるのです。

歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はありますが、歓喜する・では、どのような存在も同じです。
邪霊、悪魔でもです。

歓喜すればこそ、この霊人たちは、太陽に背を向けて、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らないとなりません。

この邪霊を変えていくには、邪霊を、意志し、理解していく事が求められます。

Ⅶ.邪霊、邪鬼が住む処を地獄と呼びますが、本質的には、地獄でもなく、邪神、邪霊でもありません。神様です。

この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。

この霊人たちを、人は、邪霊、邪鬼と言い、このような霊人の住む処を地獄なり、と多くの地上人は呼びますし、感じ、考えます。

ですが、それは、本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもありません。

相手を意志し理解していきますと、どのような存在であっても、心を開いてくれる道は必ず存在しています。
一方で、善霊であっても、理解を示さなければ、進展しない事もよくあります。

また、邪霊、邪鬼の説得が、今は無理でも可能な時はやがて来ますし、そもそも、相手に敬意を持って接しますと、どのような霊であっても、一旦は、その段階で応じてくれます。

また、霊媒で繋がるのであれば、こちらから、繋がれるタイミング、心を開いてくれるタイミングを選べますから、段階が来ますと、必ず無理なく進めるようになっているのです。

Ⅷ.同一方向に向かわないものを地上人には和する能力があり、これが、地上人の道、使命であり、そこに自由が生まれます。

霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。交叉混交はしても、同一方向には向っていない。そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。

霊界に於いては、思念の相違する者は同一の場所には存在しないようになっています。
それは、霊界とは、思念による思念の世界につながる為です。

ですから、その思念を変えていく事で、思念界そのものも変わる事となり、その思念が変わる事で、この三次元世界も変わっていくのです。

現実的にみては折り重なって、霊人達が生活していても、全然その感覚外におかれるために、その対象にはなりません。

地上界でも、原則同様ですが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず、交叉混交していきます。実際、交叉混交はし、同一方向には向っていない事が普通です。

この同一方向に向かっていない事を、和していく訓練を、地上人は体験していっているのです。

そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてきます。

特に地上世界の出来事を死後間無しの霊人ですと、三次元世界、地上世界の理解体験は、伝わりやすく、ここから世界を変える方法があります。これが前世ヒーリングで可能なのです。

そして、一段、一段、その霊人にむけて、伝わる順で伝えていき、相手の思念が変わっていく事で、和していき、新たな世界を生み出す事ができるのです。

2.まとめ

霊界人が向いている方向の北は、中心であり、歓喜の中の歓喜であり、・です

霊人達は、常に前方からの光を受け、歓喜を受け、それは、絶えざる愛であり、真理であり、生長し、生命しています。

霊人がそれぞれ異なった方向に進んでいるように見えても、各々、独立し、障害なく、進んでいます。
地上界はそうはいきませんが、霊界では、重ね合わさっても大丈夫です。

ですが、霊人はその世界しか知らない為に、霊人からの改心は体に進むには極めて難しいのです。
地上人は、霊人達に、理解、体験から立体の自覚をして頂く流れを生み出す事が大切です。

霊人の歓喜は、額で、身体全身を集約し捉えます。
地上人も、僅かながら多くの方は、体験しています。

神の御心に沿いますと、その能力は開花していきます。

地上人の肉眼に見えたものが、そのまま霊界に存在するとは決まっていません。

邪霊でも、それ相当の歓喜、真実、生活があります。
邪霊が住む処は、本質的には、地獄でもなく、邪神、邪霊でもありません。神様です。

どのような存在であっても、意志し理解していく事により、心を開いてくれる道、改心の道、は必ず存在しています。

同一方向に向かわないものを地上人には和する能力があり、これが、地上人の特別の道、使命であり、そこに地上人としての、自由が生まれます。

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

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