弥栄、に関する文面46 マコトとは、国常立尊、竜神、ウシトラコンジン、千の元、イシヅヱです

マンデラ・エフェクト文面(2025年6月24日~

弥栄、に関する文面46に進みます。

今回は、扶桑之巻 第二帖、第八帖、の二つの文面です。

五十黙示録は、既にマンデラ・エフェクトが結構に起こってきていましたが、今回は、更に、プラスアルファされている感じです。今回は、マコトの事を伝えられ始めています。

扶桑之巻 第二帖では、マコトについて、それは、竜神(❘二ん)、の事を知らせており、竜神(❘二ん)とは神(理)で、国常立尊の御現われの一(ヒトツ)である事、を伝えられてゐます。

第八帖、では、ウシトラコンジン様は、国常立尊、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神、始めの始め、終りの終り、弥栄の弥栄、イシヅヱ、である事、を伝えられてゐます。

それでは、弥栄、に関する文面46をお伝えしますね。 

1.扶桑之巻 第二帖 竜神、マコトのことを知らせねばならん時になってきています。竜神とは神(理)で、国常立尊の御現われの一(ヒトツ)です。

Ⅰ.二十のりとの九十(こと)により、二十にのりあぐようになります。

なかとみの ふとのりとこと ふとにのりあぐ。

中富の、二十のりと九十、二十にのりあぐ、とあります。

中臣のであれば、大化の改新時の最後の岩戸閉めを連想する所がありますが、

いずれにしても、二十のりとの九十により、二十にのりあぐようになります。

Ⅱ.一はいくら集めても何にもなりません。二、三も同じです。人民大変な取違いを致してゐます。

一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、

一はいくら集めても一です。
判らないもの、いくら集めても判らん道理、です。

二は二、三は三、です。

一を二つ集めても二にはならない道理です。
三人集まれば文殊の知恵、はここでは当てはまりません。

むしろ、悪多数となると、囚われ、憑依が増してしまいます。
囚われの多くは、悪多数決、によるものです。

人民 大変な取違いを致しています。

Ⅲ.〇(レイ)がもとです。一(レイ)がもとです。結び、で弥栄、となります。

● 〇(レイ)がもとぢゃ、一(レイ)がもとぢゃ、結びぢゃ弥栄ぢゃ、よく心得なされよ。

これは新たな文面、と見ます。

〇(レイ)がもと、です。一(レイ)がもと、です。生み出す事が始まりです。

〇(レイ)とは、の始まり、の事なのです。

結びで、弥栄です。

Ⅳ.世の元、〇の始めから、一と現れるまでは、〇を、十回、百回、千回、万回もくりかへしています。

世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、

これも、随分と判りやすくなったマンデラ・エフェクト、です。

世の元、〇の始めから、一と現われるまでは、〇を十回、百回、千回、万回も、くりかへしたのです。
この繰り返しで現在に至ってゐます。

此の世も、実は日々この事で成立しているはずですが、この生み出す作業がかなり減ってしまってゐるのが現代の世です。

Ⅴ.火と水(一と三)のドロドロ(十十)、その中に五色五頭の竜神(❘二ん)が御ハタラキなされて、つくり固められてゐます。

その時は、それはそれはでありたぞ、火と水(一と三)のドロドロ(十)であったぞ、その中に五色五頭の竜神(❘二ん)が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ、

その時は、それはそれであったのです。火と水(一と三)のドロドロ(十)だったのです。

その中に五色五頭の竜神(❘二ん)が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのです。

Ⅵ.竜神(❘二ん)、マコトのことを知らせねばならん時になってきています。竜神(❘二ん)とは神(理)で、五色の竜神とは国常立尊の御現われの一(ヒトツ)です。

今の人民は竜神(❘二ん)と申せば、すぐ横を向いて耳をふさぐなれど、マコトのことを知らせねばならん時ざから、ことわけて申してゐるのぞ。竜神(❘二ん)とは神(理)であるぞ、五色の竜神とは国常立尊の御現われの一(ヒトツ)であるぞ。

この辺りから、さらに新たなマンデラ・エフェクトが起こったと見ます。

今の人民は、竜神(❘二ん)と申せば、すぐ横を向いて耳をふさぐのですが、
マコトのことを知らせねばならん時ざから、ことわけて申してゐるのです。

竜神(❘二ん)とは、神(理)です。を❘として、二二の仕組みから生み出した、と見ます。

五色の竜神とは、国常立尊の御現れの一つ(ヒトツ)です。

Ⅶ.戒律は下の下の世界、今の人民には必要と言っても、いつまでも、そんな首輪要りません。

戒律をつくってはならん、戒律がなくてはグニャグニャになると思ふであろうなれども、戒律は下の下の世界、今の人民には必要なれど、いつまでも、そんな首輪はいらんぞ、戒律する宗教は亡びると申してあろうがな。

戒律をつくってはならん、のです。

戒律がなくてはグニャグニャになると思ふであろうなれども、戒律は下の下の世界、です。
今の人民には必要ですが、いつまでも、そんな首輪はいらないのです。

戒律する宗教は亡びるのです。

2.扶桑之巻 第八帖 ウシトラコンジン様は、国常立尊、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神、始めの始め、終りの終り、弥栄の弥栄、イシヅヱ、です。

Ⅰ.ひらさかの いわと ひらけむ おとのきこゆる、時がやって来てゐます。

平坂の 岩戸(言答)ひらけむ 音のきこゆる。

ひらさかの いわと(岩戸)(言答)ひらけむ おと(音)のきこゆる、となっています。

平らな坂、もありますが、ひらさか(ひ、〇、三、か)永劫の過去から、三が道を生み出す、
この事によって、いわと、ひらけむ 音のきこゆる時が来ています。

その現れは、確かに徐々に現れて来てゐるかもしれません。

Ⅱ.神に怒りはありません。太神様は、愛にましまし、真にましまし、善にましまし、美にましまし、数にましまします。

神に怒りはないのであるぞ、天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。太神は愛にましまし、真にましまし、善にましまし、美にましまし、数にましますぞ。

神に怒りはありません。
天変地異を神の怒り、と取違ひ、致してはならん、とあります。

この後の文面は、初めて、と見ます。

太神様は、愛にましまし、真にましまし、善にましまし、美にましまし、数にましまします。

数にましまし、というのは、初めてと見ます。

Ⅲ.もし、怒りが出た時は、神の座から外れてしまひます。

また総てが喜びにましますが故に怒りはないのであるぞ、若(も)し怒りが出た時は、神の座から外れて了ふのであるぞ。

また、総てが喜びにましますが故に、怒りはないのです。

若(も)し怒りが出た時は、神の座から外れてしまふこととなります。

ここは気を付ける所です。怒りがあるのは、まだまだ、御自身の我の改心が進んでいない為です。

Ⅳ.救ひの手は東(ヒムカシ)(ひ無過四)よりさしのべられます。

救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられると知らしてあろが、その東とは、東西南北の東ではないぞ、このことよく判りて下されよ。

救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられるのです。

その東とは、東西南北の東、ではありません。

ひむかし、ですから、永劫の過去の昔々から、救ひの手はさしのべられる、というのもありますし、
ひ無過四、より、永劫の過去を無から、しきまきや、から生み出す、というのもあります。

いずれにしても、此の三次元世界にはなく、永劫の過去から、無から救ひの手が差し伸べられるのです。

故に、現世のみの囚われた世界に依存した状態では、81の世界、にやがて突き進む事だけは判るかと思います。

Ⅴ.東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられます。

今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、ウシトラとは東北であるぞ、

今の方向では、東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられる、のです。
ウシトラとは東北です。

その人にとっての東北方面、という事が一つあります。私にとっても、以前からみて引っ越しの場所が東北だった、という事があります。

東北、と言えば、東北地方も一つあるでしょう。福島原発、に関する事も随分と書き換え、が起こってきたと見てゐます。

その他にも、うしとら(生四十〇)から救ひの手がさしのべられる、とありますから、
しきまきや、から神様を生み出すことからさしのべられる、もあります。

もう少し砕けて言えば、ひむかしのキタ、というのもありますから、永劫の過去から生み出す、キの多い所や、神のキ(キT)から生み出す、というのもあります。

神のキ、となりましたら、どこからでも、生み出す事は可能です。
それは、我の改心と共に進む事も多々あります。

Ⅵ.ウシトラコンジン様は、国常立尊、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神、始めの始め、終りの終り、弥栄の弥栄、イシヅヱ、です。

ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神ぞ、始めの始め、終りの終りぞ、弥栄の弥栄ぞ、イシヅヱぞ。

これも恐らくこの1年程のどこかからか現れたマンデラ・エフェクト文面ですが、更に幾つか追加になったと見ます。

特に後半の、始めの始め、終りの終りぞ、弥栄の弥栄ぞ、イシヅヱ。は、初めてではないかと見ます。

ウシトラコンジン様とは、国常立尊、です。

地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神様、です。

始めの始め、終りの終り、です。

弥栄の弥栄です。終わりなき弥栄です。

イシヅヱ、です。常々、重荷、行き詰まりが、弥栄の元とも言えます。

イシヅヱ、は初登場、と見ます。

3.まとめ

二十のりとの九十(こと)により、二十にのりあぐようになります。

一はいくら集めても何にもなりません。判らないもの、いくら集めても判らん道理、です。
二、三も同じです。人民大変な取違いを致してゐます。

〇(レイ)がもとです。
一(レイ)がもとです。の始めがもとです。
結び、で弥栄、
なります。

世の元、〇の始めから、一と現れるまでは、〇を、十回、百回、千回、万回もくりかへしています。

火と水(一と三)のドロドロ(十)、その中に五色五頭の竜神(❘二ん)が御ハタラキなされて、つくり固められてゐます。

竜神(❘二ん)、マコトのことを知らせねばならん時になってきています。竜神(❘二ん)とは神(理)で、五色の竜神とは、国常立尊の御現れの一つ(ヒトツ)です。

戒律は下の下の世界、今の人民には必要と言っても、いつまでも、そんな首輪要りません。

ひらさかの いわと ひらけむ おとのきこゆる、時がやって来てゐます。

神に怒りはありません。太神様は、愛にましまし、真にましまし、善にましまし、美にましまし、数にましまします。

神は、総てが喜びにましますが故に怒りはありません。
もし、怒りが出た時は、神の座から外れてしまひます。

救ひの手は東(ヒムカシ)(ひ無過四)よりさしのべられます。
永劫の過去の昔々から、救ひの手はさしのべられます。
永劫の過去を無から、しきまきや、から生み出します。

東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられます。

ウシトラコンジン様は、国常立尊、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神、始めの始め、終りの終り、弥栄の弥栄、イシヅヱ、です。

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

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