日の出の巻 キの巻 草木に関する文面 草木の息と神の息 岩戸を開く祓ひの⦿について

日月神示、道の生み出し方について

続いて、日の出の巻、キの巻の草木に関する文面です。

日の出の巻では、草木、とは、神(八)の流れ、それは、萌え(母得)(⦿得)に深く関係している事に関して伝えています。

岩戸閉めとなった原因は、スサノオの神様に罪を着せた処から始まり、それは、人の我、我良し、が原因で、五つの岩戸閉めの原因ともなっている事まで御伝えされています。

キの巻では、一二三とは、神の息吹であり、一切の息吹であり、草木の息も、と御伝えされています。
(草木の息は、マンデラ・エフェクト新単語と見てゐます)

それが、岩戸を開く祓ひの⦿を意味しています。

今回は、⦿、祓ひ、一二三、と草木の関係性について、日の出の巻と、キの巻の文面を御伝えしていきます。

1.日の出の巻 草木に関する文面 春(八流)となれば、萌え(母得)(⦿得)出づることになります。

Ⅰ.春(八流)となれば、萌え(母得)(⦿得)出づることになります。草木だけでなく、何もかもです。

春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、草木許りでないぞ、何もかも もえ出づるのぞ、此の方の申す事 譬(たとへ)でないと申してあろが、少しは会得(わか)りたか。

春(八流)となりますと、もえ(母得)(⦿得)出づるのです。
草木ばかりではなく、何もかも もえ出づるのです。

実際、春になれば、草木が萌え出づる、というのは、今の世界でもあるのですが、
神々様の流れ、弥栄の流れ、となりますと、元⦿を得る事が出づるようになってきます。

そこで、かなり大きなお役割が、草木、と見ます。
それ以外でも、何もかも、もえ(⦿得)出づるのです。

此の方の申す事はたとへではないという事も、行の段階が進んできますと、判ってきます。

少しはわかりたか。というのが、ここでは、会得りたか、というのはそういった事です。
会得して下さい。行じ、体験しないと判りません。

草木のやり取りから、元の⦿を生み出す行をしていきますと、周囲に起こる変化も全然変わったものになります。

Ⅱ.五度の岩戸閉め、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、そこから囚われの世の始まりとなりました。

石もの云ふ時来たぞ、此の道 早く知らして呉れよ、岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。

意志(一四)もの云ふ時来ています。
(実際、石、がもの云ふ時、私には違った体験で起こっていますが)
御自身の、キ、から全て始まります。

まず、此の道、早く知らせて呉れよ(九〇四)と御伝えされています。

岩戸は、ここまで、五回閉められています。

那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、が一度目です。
天照大神の時、が二度目。
神武天皇の時、が四度目。
仏来た時が、五度目です。

中でも、大切なのは須佐之男神様に罪着せた時、です。三度目でしょう。

これは、人が人の世界を生み出す為、須佐之男神様に罪を着せ、その後の世界を築いたのですが、
それが、我良し、囚われの世界だったのです。

我良しから分け隔てと進んだからこそ、分け隔てから苦しみの世を生み出したのです。

この事で苦しみの世、悲しみの世、支配の世、弱肉強食の世となったのです。

五度の岩戸閉め、全て、我良しから始まった話です。

実は、御自身が、御自身の・に繋がる一番重要な所でもあり、それは、御自身でも気付かない我良し、に気付くところから始まります。

Ⅲ.裸(八十火)程結構なものない事が判ってきます。

愈々きびしく成ってきたが此れからが正念場ざぞ、否でも応でも裸にならなならんぞ、裸程結構なもの無い事 始めて会得(わか)りて来るぞ。

この五つの岩戸閉めが開かれる世へとこの後、進みますから、愈々正念場となります。

嫌でも応でも、裸にならななりません。

裸(八十火)程結構なものありません。
表の神様を、立体の神様へと進めていく事が求められます。

囚われた神様の囚われを無くしていくのです。

一八十(岩戸)開き、とは、表の神様(八)を十の神様、立体へと進めていく意味が一つあると見てゐます。

2.キの巻 草木に関する文面 一二三とは、神の息、てんし様の息、臣民の息、けものの息、草木の息です。

Ⅰ.ヒは、始めなき始まり、ケは終わりなき終わり、神のハタラキが一二三です。それが、中今に現れます。

一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。

一二三(ひふみ)とは、限りなき神様の弥栄の事です。

この文面も初めてとは、見ますが、一(ひ)は始めなき始めの事です。
一(ひ)とは、永劫の過去、という伝え方をしていましたが、近い表現として現れていて嬉しく思っています。

ケは、終わりなき終わりの世界です。永劫の未来といえます。
神様のハタラキが一二三(ひふみ)です。

始なく終なく、弥栄の中今、の事です。

過去の状況とは、今現在であり、未来の状況も、今現在であり、常に、今現在の中今(なかいま)に応じていきます。

Ⅱ.一二三とは、祓い清め、弥栄であり、神の息、てんし様の息、臣民の息、けものの息、草木の息です。

一二三は神の息吹であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三食(お)せよ、始め一二三あり、一二三は神ぞ、一二三は道ぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ。

一二三は神様の息吹(いぶき)です。
一二三を唱えて下さい。

カミヒト共に、一二三唱へて、岩戸が開けます。

一二三にとけて下さい。

一二三と息してください。
一二三を着て下さい。
一二三を食(お)して下さい。

始め一二三あり、
一二三が神です。
一二三は道です。

一二三とは祓ひ清めです。

祓ひ清めとは、弥栄の事です。

神の息です。
てんし様の息、のことです。

臣民の息、けもの、草木の息、です。

草木の息、という単語は初めてではないか、と見ます。

神様の息とは、全ての存在の息のことです。

Ⅲ.一二三とは、ケレホ、であり、始まりなき始まりであり終わりなき終わりです。

一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、(うず)(歓喜)であるぞ、(大歓喜)であるぞ。皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、意露波(いろは)ぞ、判りたか。

一二三とは、ケレホであり、始まりなき始まり、終わりなき終わりです。

一二三の逆から進んでも同じです。

それは、(うず)(歓喜)であり、(大歓喜)でもあります。

皆(三七)の者に一二三唱へさせよ、と御伝えされています。

この事を理解するには、一二三の体験していく以外判りません。
それは、神の御心と同じになり、行に移していく事です。

心・口・行、一致する事にあります。
神様の御用をしていく事にあります。

それが、五柱の御ハタラキとなり、八柱、十柱の御ハタラキ、となります。
五十連(いつら)となります。

いろは、となります。

五十連は、今現在の、ひふみ四十七音、いろは四十八音が、五十連となる可能性があります。

ちなみに、ひふみ四十七音は、手拍子〇を合わせますと、五十八音となり、
いろは四十八音は、手拍子〇を合わせてますと、五十九音になります。

3.まとめ

春(八流)となりますと、もえ(母得)(⦿得)出づるのです。
草木ばかりではなく、何もかも もえ出づるのです。
神々様の流れ、弥栄の流れ、となりますと、元⦿を得る事が出づるようになってきます。

五度の岩戸閉め、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、それは、人の、我良し、囚われが原因で、そこから囚われの世の始まりとなりました。

ヒは、始めなき始まり、ケは終わりなき終わり、神のハタラキが一二三です。それが、中今に現れます。

カミヒト共に、一二三唱へて、岩戸が開けます。

一二三にとけて下さい。

一二三と息してください。
一二三を着て下さい。
一二三を食(お)して下さい。

始め一二三あり、
一二三が神です。
一二三は道です。

祓ひ清めとは、弥栄の事、です。

神の息です。
てんし様の息、のことです。

臣民の息、けもの、草木の息、です。

一二三とは、ケレホ、であり、始まりなき始まりであり終わりなき終わりです。

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

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