地震の巻を続けます。
第七帖では、本来、悪はなく闇も無く、地獄もなく、悪とは新たな世界を生み出せる歓喜の元、である事を伝えています。
更にこの事を、霊人は体得する者は極めて少なく、地上人は極めて稀、になります。
来たる新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなりますが、更に弥栄していきます。
今回は、悪を浄化し、必要悪として生かす事が神の御心である事、を御伝えしていきます。
- 1.地震の巻 愛に関する文面⑥ 第七帖 悪を浄化し、必要悪として生かす事が、神の御心です
- Ⅰ.霊界が原因の世界であっても、すぐに、地上にはうつるとは決まっていません。
- Ⅱ.大神様の秩序、法則、統一は、一応完成していますが、次の完成へと弥栄し続け、終わりがありません。
- Ⅲ.悪を浄化して、悪を必要悪として生かす所に、生きたる真理の大道があり、神の御心になります。
- Ⅳ.本来、悪はなく闇も無く、地獄もありません。全て、新たな世界を生み出せる歓喜の元だからです。
- Ⅴ.一段弥栄した時、二段弥栄した時の、地上人の感覚について
- Ⅵ.本来、悪はなく、闇も無く、地獄もない実態。霊人は体得する者は極めて少なく、地上人は極めて稀、になります。
- Ⅶ.悪を悪成りと定める因果、御自身を愛するは悪の第一歩、は悪的平面的考えであるので注意が必要です。
- Ⅷ.来たる新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなりますが、更に弥栄していきます。
- 2.まとめ
1.地震の巻 愛に関する文面⑥ 第七帖 悪を浄化し、必要悪として生かす事が、神の御心です
Ⅰ.霊界が原因の世界であっても、すぐに、地上にはうつるとは決まっていません。
●地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。
地上には、地上の順序があり、法則があります。
霊界には、霊界の順序があり、法則があります。
霊界が原因の世界であるからと言って、その順序法則を、そのまま地上にはうつすとは決まっておらず、また、結果するとも決まっていません。
また、地上での約束、出来事、が、そのまま霊界では行うと決まっていません。
霊界との意志にそぐわない場合、三次元世界で起こった事が、消えたり、亡んだり、の流れにはなるのです。
重要なのは、納得し、実現したい、というキになれるかどうか、です。
御自身もそうですし、周囲の存在も同じです。
これは、霊界、現界、共通して合致させていく事が大切です。これが、まつり実践、です。
三次元で実際、すぐ実現していくものもありますが、多くは、マンデラ・エフェクトが起こっていく流れにもなっていきます。
一段一段思念を変えていく事で一段一段世界は変わっていきます。
このような事ができるのは、ある一定の平和、経済、が満たされていませんとできませんが、それは、大神様の歓喜の中に存在しているからであり、その歓喜は、秩序され、法則され、統一されているのです。
Ⅱ.大神様の秩序、法則、統一は、一応完成していますが、次の完成へと弥栄し続け、終わりがありません。
●その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。
その秩序、法則、統一は、一応完成はされています。
更には、その完成から次の完成へと弥栄されるのです。
このように終わりのない完成の世界。超完成であり、また、未完成でもあります。
この弥栄の波長をもって、全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのです。
Ⅲ.悪を浄化して、悪を必要悪として生かす所に、生きたる真理の大道があり、神の御心になります。
●これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。
これが、生命の本体でもあります。
限られた智によって、この動きを見ますと、悪を許し、善の生長弥栄を殺すがごとくに感じる事もあるでしょう。
ですが、この状況こそ善を生かして、更に活力を与えて、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かされるのです。
悪を悪で無くす事から新たな世界を生み出す事。
苦を苦で無くす事から新たな世界を生み出す事。
恨みの思念、負の想念を無くす事で新たな世界を生み出す事。
それには、あらゆる存在、皆を生かす思念が元である事。
それが、生きたる真理の大道ですし、神の御旨なることを知る事になります。
これらは、体験を持って分かるようになっていますし、体験しませんと、いつまでたっても分からないようになっています。
ですから、弥栄実践、祓実践、まつり実践、を日々していく事、その行の連続から起こる世界を実現、体験していく以外判らないようになっています。
Ⅳ.本来、悪はなく闇も無く、地獄もありません。全て、新たな世界を生み出せる歓喜の元だからです。
●本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。
本来、悪はなく闇はなく、地獄はないのです。
このように、どのような悪であっても、必ず、その悪を意志し理解しようという所から、新たな世界を生み出せる事。
そして、大きく変化を起こす程に大きな世界を生み出せる事。
地獄の三段目の表の世界が、天国への道である事。
ですから、邪霊、邪鬼、邪神であっても、理解しようという所から、弥栄の道が生み出せる事。
こうして、悪は無く、闇は無い、と判って来る事。
その悪、闇、を作ったのは、御自身の我良し、が原因という事。
御自身の囚われが原因という事が分かってきます。
ですから、その御自身の改心から新たな世界を生み出して行く事となっていきます。
この事は、生前、生後(現世)、死後の区別なく、全てに通じる歓喜なのです。
Ⅴ.一段弥栄した時、二段弥栄した時の、地上人の感覚について
●一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。
一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であった事を体得します。
更に一段上昇して、三の段階に達した時も同じです。
地上人的感覚ですと、二の天界と進んだ時、一の天界は悪に感じられます。
三の天界に進んだ時、一の天界は最悪、二の天界は悪に感じられる場合が多くなるのです。
この感覚が、地上人的感覚です。
Ⅵ.本来、悪はなく、闇も無く、地獄もない実態。霊人は体得する者は極めて少なく、地上人は極めて稀、になります。
●悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。
悪的感覚と悪的実態は、実際に別ですが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少なくなります。
本来、悪はなく、闇もなく、地獄はないのですが、それらは全て、生前までの自らが生み出したもの、ということは更に気付きにくくあるでしょう。
それは、この交叉混交の三次元世界で、和する事から新たな世界を生み出せる事を忘れてしまっている為です。
大多数の価値観が善と思い込む事となり、それは、11の囚われと進む流れとなります。
そして、その11の囚われを生み出す元は、6つの慢心です。
それを、人の我基軸で気付ける事は、極めて稀です。
御神示あって、ようやく気付けるの方が殆どだと思いますが、その境地に進むまでも、そう簡単ではありません。時間もかかりますし、手間、努力、お金、全てかかるようになっています。
Ⅶ.悪を悪成りと定める因果、御自身を愛するは悪の第一歩、は悪的平面的考えであるので注意が必要です。
●悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。
悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは、原因の世界より伝えられたる一つの因果である、という平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白です。
実際、此の道に進みますと、この因果は必ずしも成立しなくなっていきます。
嬉しきビックリがその一つです。千人力は、因果の説明がつきません。
皆と和す流れが進みますと、自分でも判らないような、嬉しきビックリが起こるのです。
自分を愛するは、先ず悪の第一歩と考えるその考えは悪であることを知らねばなりません。
自分を愛し、周囲の世界と和していく事で、喜びの和を大きくしていく事で歓喜の世界を生み出す事ができるのです。
Ⅷ.来たる新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなりますが、更に弥栄していきます。
●来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。
来たるべき新天地には、悪を殺さんとして、悪を悪として憎む思念はなくなります。
ですが、それが、最高の理想郷ではありません。
更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つる世界が訪れることを知り、努力しなければなりません。
此の道は終わりがありません。そして、その喜びは無限に続く事となるのです。
2.まとめ
地上には、地上の順序があり、法則があります。
霊界には、霊界の順序があり、法則があります。
霊界が原因の世界であっても、すぐに、地上にはうつるとは決まっていません。
それは、神様の歓喜の中に存在しているからであり、その歓喜は、秩序され、法則され、統一されているのです。
大神様の秩序、法則、統一は、一応完成していますが、次の完成へと弥栄し続け、終わりがありません。
悪を浄化して、悪を必要悪として生かす所に、生きたる真理の大道があり、神の御心になります。
本来、悪は無く、闇も無く、地獄もありません。
全て、新たな世界を生み出せる歓喜の元だからです。
地上人的感覚ですと、二の天界と進んだ時、一の天界は悪に感じられます。
三の天界に進んだ時、一の天界は最悪、二の天界は悪に感じられる場合が多くなるのです。
この感覚が、地上人的感覚です。
本来、悪はなく、闇も無く、地獄もない実態。
これらの境地を、霊人は体得する者は極めて少なく、地上人は極めて稀、になります。
悪を悪成りと定める因果、御自身を愛するは悪の第一歩、は悪的平面的考えであるので注意が必要です。
来たる新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなりますが、更に弥栄していきます。
此の道は終わりがありません。そして、その喜びは無限に続く事となるのです。
修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。