弥栄、に関する文面8 神は歓喜で、一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生み出します

日月神示、道の生み出し方について

弥栄に関する文面8、です。

地震の巻 第二帖のその2に進みます。

今回のマンデラ・エフェクトは、全般的に広く、という感じですが、
分霊的な話が多くなってきています。

分霊の世界観は、最初には無かったもので、その世界観が、今回、地震の巻第二帖で更に詳しく伝えられていると見ます。

歓喜は神であり、神は歓喜で、一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生み出します。
更に、生み出したものは、生んだものと同じ性質をもって弥栄します。

これが、神世の型でもある、と見ます。そして、分霊、と見ます。

ですから、生み出す、行を次々進めて下さい。
多くの人の囚われた行からよりは、楽に進むのが思念界を変えていく行、です。
まずは、五人分からです。

苦を苦で無くす、悪を悪で無くす、苦や悪と和する、といった事が求められます。

今回、ちょっと、新たなニュアンスに捉えられる内容もあったのですが、
苦や悪と和する、というものです。

実は、前世ヒーリングでも時々あったのですが、巨悪に対しの和し方ですが、徹底的に、最初は肯定し続ける、というものです。

その事から、新たな世界を生み出せる所があるのです。

今回は、このニュアンスに近い事が書いてあり、そういう意味では私は初めて見ます。

それでは、地震の巻 第二帖 その2をお伝えしますね。

1.地震の巻 第二帖 その2 神は歓喜で、一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生み出します

Ⅰ.地上人は内的には霊人、霊人は外的には地上人です。生前の形式、生後の形式、死後の形式は同じです。

霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。即ち、死後は生前の形式による。

これも、初めてのように思います。
似たような表現は他にもあったかもしれませんが、

霊人は、その外的形式からしますと、地上人であり、地上人は、その内的形式からしますと霊人、という事です。

地上人は内的には霊人ですし、霊人は外的には地上人なのです。

生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式でもあります。

死後、とは、生前の形式により決まります。

このように、死の時の形式は大切ですね。

ですから、もっと言えば、普段からの形式が大切です。
此の道に進む程に、日々、生き死に繰り返していく事になるからです。

Ⅱ.形式は、愛、真、善、美と現れ、その根幹、生命せるのは歓喜です。

形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。

形式は愛と現れ、真と現れ、善と現れ、美と現れます。

その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜です。

歓喜なき所に形式なく、存在は許されない、とあります。
歓喜なき所には、形式がなくなっていき、存在しなくなっていきます。

Ⅲ.外の真、外の愛は、共に、合一、呼吸、生命、相関連します。

愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。これら二つが相関連せるを外の真と云う。外の愛も外の真も共に生命する。

愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸しません。
現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しません。

これら二つが相関連せるを外の真と云います。

外の愛も外の真も共に生命します。

Ⅳ.人間の偽善者、霊界の偽善霊の存在が許されているのは、絶えず浄化し、弥栄すればこそ、許されます。

人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。

人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたる、を見れば判ります。
(偽善者は以前からあったと見ますが、偽善霊は初めて、と見ます。)

表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつのです。

故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができます。
許されてはいますが、それは、絶えず、浄化し、弥栄すればこそ、許されています。

ですから、我よし、囚われ、に進みますと、返って苦しむ事となります。
そして、中々改心できないのが人の我でもあります。

Ⅴ.浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でなくなります。更に善を善とし、悪を悪とし、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜、といいます。

浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。

浄化し弥栄しゆく悪は悪ではなく、偽は偽ではありません。
動かざる善は善ではなく、進展しない真は真ではないのです。

ですから、人における善や真でも、進展しないものは、善でも真でもないのです。

更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜、と言います。

悪を悪として生かす、というのは、悪を悪で無くすともいえる一面があります。
これは、理解し、喜びに導くという所があります。

また、それ以外にも悪を悪として生かす方法、それを歓喜とする方法もあるようです。
悪を悪として生かし、というのも、一つ求められるかもしれません。(私も今現在試されています、結構な御用です)
まとまらないのをひっくるめてアフンの仕組みもそれにあたる可能性があります。

Ⅵ.歓喜は神であり、神は歓喜で、一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生み出します。

歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。

歓喜は神であり、神は歓喜です。

一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれは、歓喜する歓喜の現れの一つです。

Ⅶ.生み出したものは、生んだものと同じ性質をもって弥栄します。(分霊の型です)

生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。

生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄えます。

これが、分霊の型です。

ですから、本質的には、善悪はありません。

2.まとめ

地上人は内的には霊人、霊人は外的には地上人です。生前の形式、生後の形式、死後の形式は同じです。
普段からの形式が大切です。
此の道に進む程に、日々、生き死に繰り返していく事になるからです。

形式は、愛、真、善、美と現れ、その根幹、生命せるのは歓喜です。
歓喜なき所には、形式がなくなっていき、存在しなくなっていきます。

外の真、外の愛は、共に、合一、呼吸、生命、相関連します。

人間の偽善者、霊界の偽善霊の存在が許されているのは、絶えず浄化し、弥栄すればこそ、許されます。

浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でなくなります。更に善を善とし、悪を悪とし、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜、といいます。

歓喜は神であり、神は歓喜で、一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生み出します。

生み出したものは、生んだものと同じ性質をもって弥栄します。(分霊の型です)

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

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