なく(七九)に関する文面⑨ 天国の理とは、道なき理、喜びが理、です、囚はれない事です囚はれない事です

日月神示、道の生み出し方について

今回も、マンデラ・エフェクト文面がありました。

天国の理、という言い方も無かったと見ますが、それは、道なき理、喜びが理、というものです。

また、この文面は、既に、以前このブログの中でも取り上げたはずの文面でもあったのですが、私にはそのような記憶はなく、今回は、明らかにマンデラ・エフェクトのように思っています。

他にも、道に囚はれてはならん。も初めてではと見ます。

今回は二つの文面、白銀の巻、黒鉄の巻にある、なく(七九)に関する文面ですが、いずれも、囚われない事の重要性を伝えています。

それは、喜び、基軸ですすむ事にあり、なく(七九)成る事に鍵があるようです。

それでは、白銀、黒鉄、2つの文面を御伝えしますね。

1.白銀の巻 第三帖 天国の理とは、道なき理、喜びが理、です。

Ⅰ.弥栄の道は、神の喜び、人間の喜びの中にあります。

弥栄の道、神の喜び人間の喜びの中にあるぞ。愛ざと申して愛に囚はれて御座るぞ。真ざと申して真に囚はれて御座るぞ。喜びに生きよ。

弥栄の道、神の喜び、人間の喜びの中にあります。

愛、と申して愛に囚はれています。
真、と申して真に囚はれています。

喜び(四六九火)に生きて下さい。

四の行、無、九の行に生きて下さい。

愛だけでもなく、真だけでもなく、喜びが、弥栄の基軸になるのです。
(ただ、勿論、愛も真も必要です)

Ⅱ.宗教、道に、囚はれてはなりません。喜びに生きて、喜びに囚はれないようにして下さい。

宗教に囚はれてはならん。道に囚はれてはならん。喜びに生きて、喜びに囚はれるなよ。

宗教に囚はれても成らないようになっています。

また、道に囚はれても成らないようになっています。
ただ、道に囚はれてはならん。は以前は無かったように思っています。
何か、段階が進んだ境地になってきていますね。

ですから、喜びに生きて下さい。
といっても、喜びに囚はれないようにして下さい。
囚はれない、事が、喜び、の鍵とも言えそうです。

よろこび(四六九火)ですからね。四の行、無、九の行から生み出すのです。

Ⅲ.お互いの喜びの湧き出づることでなければ、真の愛ではありません。理(ミチ)ではありません。

お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛でないぞ。理(ミチ)でないぞ。

天国の生活の型(地震の巻第十九帖参考)とも同じですが、
お互いに喜びが湧き出づることでないと、真の愛ではありません。
そして理(ミチ)ではありません。

そこまでが結構に難しいのです。

ですが、此の道に向けて、真剣に一生懸命に求めて行きますと、必ず、次の道が生まれるようになっています。
そして、お互いの喜び、湧き出づることが生まれるようになっています。

それが、真の愛、理、になるのです。

Ⅳ.天国の理とは、道なき理、喜びが理、です。

天国に理あると申すが、今の人間の申したり、考へたりするやうな道でないぞ。道なき理と申してあらうが。喜びが理であるぞ。嬉し嬉しの理、早う合点せよ。

これも、マンデラ・エフェクト単語と思いますが、道なき理、は以前無かった単語、私は初めて、と見ます。

天国には、理ありますが、今の人間の申したり、考へたりするやうな道ではありません。

道なき理、なのです。
喜びが理、なのです。

喜びを生み出す、間違いない道の一つに、苦を苦で無くす、悪を悪で無くす。はあると見ますが、
それ以外でも、嬉し嬉しの道、あるかもしれません。れを現在、試されている所があります。

広くは囚われを無くす。といった事がありますが、今の御自身の喜びの輪は、無限に外に拡げて行けますから、
これまで喜びの和とできなかったものを、喜びに変える事ができる可能性があります。

Ⅴ.生命栄えるものは、皆、喜びです。信仰とは、その喜びの中にとけ入る事で、生も死もなく(七九)なります。

生命栄えるもの皆喜びであるぞ。信仰とは、その喜びの中にとけ入ることぞ。生も死もなくなるのざ。時間や空間を入れるから、知(血)、通はなくなるのぞ。

生命栄えるものは、皆喜びなのです。

信仰とは、その喜びの中にとけ入ることなのです。

そこには、生も死もなく(七九)なるのです。
生きてゐても七九成りますし、死となっても七九成るのです。

時間や空間を入れるから、知(血)(千)、通(みち)は無くなるのです。

ですから、喜びそのもの、生命栄えるものは、皆喜びですから、まず、は、喜びの中にとけ入る事から信仰に入ることが求められます。

続いて、この感じですと、時間、空間を入れないようにしていく。
その事で、知(千)、通が生まれるようになる、という事があるようです。

時間、空間が無い世界。
鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬をわすれてゐる境地
そのような境地です。

2.黒鉄の巻 第十四帖 真の理解に入りますと、宗教、形式に囚はれなく(七九)なります。

Ⅰ.悪の総大将は、奥(お九)にかくれています。

悪の総大将は奥にかくれて御座るのぞ。一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、世界をワヤにする仕組、もう九分通り出来てゐるのぢゃ。

悪の総大将は奥(億)にかくれてござる、とあります。

奥は心の奥にありますし、億は、人以外の存在にも隠れていると見ます。
ですから、悪の総大将は、あちらこちらにかくれているのです。

一の大将、二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、世界をワヤにする仕組み、もう九分通りできています。

今の世界でも、そのような一面もありますが、それは、囚われた一面でしかなく、此の道についても、その型出しとなるケースもあるかもしれません。

ですが、段階が進んでゐますと、ワヤ(十八)から、ヤワ(八十)にする仕組みへと進みます。

Ⅱ.真の理解に入りますと、宗教に囚はれなく(七九)なります。形式に囚はれなく(七九)なります。

【真の理解に入ると宗教に囚はれなくなるぞ。形式に囚はれなくなるぞ】。

真の理解に入りますと、
宗教に囚はれなくなります。

形式に囚はれなくなります。

此の道の通りに進みますと、神学が次々起こりますから、実際、宗教に囚はれなくなります。
また、型式にも囚はれなくなります。

喜び、が理、であり、次々現れるようになっているからです。
それが、七九成る元ともなるのです。

それが真の理解になります。

Ⅲ.真の理解に入りませんと、真の善、真の信、真の悪、真の偽りも判りません。

真の理解に入らねば、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。

真の理解に入らないと、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らないのです。

ですが、それは、当初、囚はれている所から始まりです。
誰もが通る道です。

次に理解から入りますが、まだまだこれでも、双方喜びに進むとも決まっていません。
まだ、囚はれ、が残ってゐる為です。それは双方とも言えます。

ですが、囚はれ、が無く(七九)なりますと、新たな世界が生み出される事となります。

この体験をしない事には、真の善、真の信、真の悪、真の偽り、も判らないのです。

真の善、とは生み出し続けていく事。
真の信、は、これらを体験していく事。から判ります。

すると、真の悪とは、囚われたままの事である事。ですが、それは生み出す元である事。
真の偽りも、囚われたままである事。ですが、その偽りも偽りで無くす事ができる事にあります。

すると、善も悪も、なく(七九)なる関係性である事が判ってきますし、
信も偽も、なく(七九)なる関係性である事が判ってきます。

Ⅳ.イワトひらいてあきらかになったら、宗教、政治いらなくなり、喜びの、ナルトの仕組み、二二にうつります。

今にイワトひらいてあきらかになったら、宗教いらんぞ。政治いらんぞ。喜びの歌高らかにナルトの仕組、二二(フジ)にうつるぞ。

今にイワトひらいてあきらかになりましたら、宗教いらなくなります。
政治もいらなくなります。

喜びだけになります。

喜びの歌(ウタ)、高らかに、ナルト(七流十)の仕組み、二二に移ります。

3.まとめ

弥栄の道は、神の喜び、人間の喜びの中にあります。

愛、と申して愛に囚はれています。
真、と申して真に囚はれています。

ですから、喜び(四六九火)に生きて下さい。

宗教、道に、囚はれてはなりません。喜びに生きて、喜びに囚はれないようにして下さい。

お互いの喜びの湧き出づることでなければ、真の愛ではありません。理(ミチ)ではありません。
ですが、やがて、その道を生み出す事になっていきます。

天国の理とは、道なき理、喜びが理、です。

生命栄えるものは、皆、喜びです。
信仰とは、その喜びの中にとけ入る事で、生も死もなく(七九)なります。
ですから、まずは、喜びを生み出す事が基軸になります。

悪の総大将は、奥(お九)にかくれています。

真の理解に入りますと、宗教に囚はれなく(七九)なります。形式に囚はれなく(七九)なります。
七九成る、体験、理解をしていくようになる為です。

真の理解に入りませんと、真の善、真の信、真の悪、真の偽りも判りません。
ですが、常に、七九成る関係性である事が判ってきます。

イワトひらいてあきらかになったら、宗教、政治いらなくなり、喜びの、ナルトの仕組み、二二にうつります。

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

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