草木に関する文面最後になります。
草木に関する文面が、そこまで岩戸開き、この後の世に向けて、また、三千世界に関する文面が多いと思いませんでしたが、今回、扶桑の巻~紫金之巻、五十黙示録の草木に関する文面を御伝えします。
といっても、五十黙示録には、草木、の文面は、あまり無く、草、に関するものを合わせてお伝えします。
ですが、ここでも、岩戸開きの事が伝えられています。
また、イワト(一八十)開きの解釈の一つも、本日、ふと判った事もあり、今回の中で御伝えしています。
更には、みたまみがき(三十真三我キ)、も判ってきた事があります。
これも、御自身の中での、三界和合、が基本です。此の事も御伝えしていきます。
平等愛とは差別愛であり、それは、立体の数に入る事にある事も伝えられています。
また、一四一四から、五と五、十、十一(カミヒト)へと進み、かずたま、いろたま、結構にしていく流れまで御伝えされています。
今回は、五十黙示録にあります、草、草木の文面を御伝えしていきます。
1.扶桑之巻 第十三帖 皆、内から大きくなります。みたまみがき(三界和合)によってです。
Ⅰ.たたえる言葉によって、ふとのりとの九十、高らかになります。
●称言(たたえごと) 太祝詞(ふとのりと)こと 今ぞ高らに。
たたえる言葉、ふとのりとの九十、今ぞ高らかに進む時です。
Ⅱ.木でも草でも、皆中から大きくなります。あらゆる存在と和していく事から始まります。
●木でも草でも皆、中から大きくなるのざと申してあろう、つけ焼刃や膏薬はりで大きくなるのでないぞ、三千年に一度と言ふ、又とない結構な時がめぐりて来てゐるのであるぞ、
木でも草でも、皆様、中から大きくなるのです。
つけ焼き刃や膏薬はりで大きくなるのではありません。
心の内から、・から大きくなるのです。
それは、改心と共にです。
あらゆる存在と和していく事によって大きくなります。
三千年に一度と云ふ、又とない結構な時が、めぐり来てゐます。
Ⅲ.みが(三我)けば神様と同列のミタマ、です。釈迦であり、キリスト、でもあります。
●為せば成るぞ、六ヶ敷いこと申してゐるのではない、みがけば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞ、キリストぞと申してあろう。
為せば成る時、が来ています。
この為せば成るは、かなりあちらこちらで現れている文面です。
それは、難しいこと申してゐるのではありません。
みがけば神様と同列のミタマ、となります。
みがけば、は、三我けば、とあり、三つの段階を経て、我を改心し続けていけばよいのです。
三が道とも言えます。今の我、を省みる事によって、そして、何としてでも変えたい、という強い思いから、
新たな世界を生み出す事にあります。
それは、強い思い、から始まります。
ですから、真剣、が必要です。
このようにして、我の改心をし続けていく事にあります。
これが、みたまを磨く(三我九)であり、みたま(三十真)みがき(三我キ)でもあります。
更には、三界和合の、我のキ、でもあります。
それは、過去、現在、未来。神界、幽界、現界。です。
後述もしていきますが、三つの御自身が神となる、御自身の和合によって、神のキとしていくのです。
この流れ、から、釈迦、キリストの同列のミタマ、となれるのです。
Ⅳ.中の御自身を掃除しないでいますと、いつまで経っても、岩戸がひらけてゐても、岩戸はひらけません。
●内にあるものを磨けば外からひびくものも磨かれた、けがれのないものとなるのぢゃ、中の自分を掃除しないで居るといつ迄たっても、岩戸がひらけてゐても岩戸はひらけん。
内にあるものを磨け(三、我、九九)ば、外からひびくものも、磨かれた、けがれのないものとなるのです。
三が道、我の改心、九の二二の仕組み、永劫の未来へと無限に変わるのです。
中の御自身を掃除しないでいますと、いつ迄たっても、岩戸ひらけてゐても、岩戸はひらけません。
ですが、まだまだ、御自身の内を変えない人、我の改心を進めていかない人、かなり多いです。
それ程に、11の囚われ、6つの慢心は強固ですし、曇りをどんどん強めていくものでもあるのです。
2.五葉之巻 第一帖 海藻、山の菜、野菜が、よりよくなる早道です。
Ⅰ.よくない子が出来たら、海藻、山の菜、野菜を食べさせてください。段々よい子になります。
●あの子を生んで、この子を産んで去ったのであるぞ。その中に一人だけよくない子が出来た、その子には海の藻草や山の菜、野菜を食べさせてくれよ、段々よい子になるぞ。
あ(一一)の子(九)を生んで、こ(苦)の子(九)を産んで去ったのです。
永劫の過去から、九の行を生み出し、苦の囚われた我ら、九の行を生み出し、去っていったのです。
これが、岩戸閉めのお話です。
この為に、その中に一人だけよくない子が出来る事があります。
その場合は、海の藻草、山の菜、野菜を食べさせてください。
段々良い子になります。
3.五葉之巻 第九帖 平等愛とは差別愛であり、立体の数に入る事にあります。
Ⅰ.平等愛とは、差別愛のことです。
●平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。
平等ですとか、公平と申すのは、悪魔のワナ、です。
天地をよくみて下さい。
人民の申すような、平等も公平もありません。
一寸のびる草もあれば、一尺のびる草もあり、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂点です。
これが、公平であり、平等なのです。
平等愛とは、差別愛の事です。
それぞれの差があってこそ、新たな世界が生み出されていきます。
Ⅱ.選挙すればするほど、多数決は、本質から遠ざかります。
●人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。
人は、選挙と申す、マヤクに酔ってゐます。
選挙すればするほど、本質から遠ざかります。
その原因は、ここまで読まれている方は判ると思います。
理解をしようとする事を止めてしまっている元になる為です。
多数決には、理解が要りません。
ですから、囚われが多数の世では、よりおかしな流れにいくのです。
その囚われが強まり、更に囚われる方向に進むので、随分と囚われの世を生み出してしまっているのです。
ですが、マヤク(真八九)とすれば、解決は可能です。
くにつつみから、真の八、神様を生み出して行けばよいのです。
Ⅲ.悪魔に魅入られてゐるから判らない事になります。
●他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。
更には、この囚われの段階の事を、ここでは悪魔に魅入られてゐる、と御伝えされています。
実際、この囚われの原因は、我良し、慢心、の二つにあります。
選挙の他、方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られていきますし、
そもそも、悪魔に魅入られてゐた事にも中々気付けません。
悪を悪で無くす、苦を苦で無くす、囚われを囚われで無くす、理解、体験をしていけばよいのです。
この事で周囲の世界をどんどんと書き換えていく事が求められます。
Ⅳ.平面の数は囚われの元であり、立体の数に入れば、無限の世に進む事ができます。
●世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。
世は、元来立体ですし、(四)は立体です。
しきまきや、から新たな世界を生み出し続けていますから、何とか、囚われの強靭な此の世の現在であっても、戦争、致命的大地震、大噴火は避ける事ができているのです。
平面の数で定めてはなりません。
立体の数に入れよ(八一〇四)。と伝えられているのです。
神々様を、しきまきや、から始め、生み出して下さい。という事です。
そして、81の世界を、しきまきや、から生み出し助けて下さい。という事です。
立体では、数で決めるのではなく、入れよ。と御伝えされているのはそういった事です。
4.補巻 紫金之巻 第十一帖 一四一四から、五と五、十、十一(カミヒト)へと進み、かずたま、いろたま、結構にして下さい。
Ⅰ.言葉のふくみ、くにつち、の理解大切です。世界の一切の存在は、数からつくっています。
●何も彼も前つ前つに知らしてあるのに、人民は先が見えんから、言葉の【ふくみ】がわからんから取違ひばかり、国土(九二つち)の上は国土の神が治(し)らすのぢゃ、世界の山も川も海も草木も動物虫けらも皆この方が道具に、数でつくったのぢゃ。
何も彼も、前に前に、過去に過去に知らしてあるのに、人民は先も見えませんし、過去も見えていないですし、言葉の【ふくみ】(二九三)が判っていませんから、取違ひばかりとなっています。
くにつちは、(九二つち)と此処では御伝えされていますね。
以前、このような表記、私自身した事がありましたが、御神示の文面でマンデラ・エフェクトが起こっていて嬉しく思います。
九二つち、の上は、九二つちの神様が治(し)らしますし、しきまきや、から始まります。
世界の山も川も海も草木も、動物、虫けらも、皆この方が道具に、数でつくったのです。
それは、かずたま、から始まっています。
Ⅱ.愈々とは、一四一四、であり、五と五であり、十であり、十一です。
●愈々が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ、クニトコタチがクニヒロタチとなるぞ、
愈々が来たという事です。
いよいよとは一四一四です。
しきまきや、二二の仕組みでしょうか。これを始めている方は判りますが、裏表の和する事で、十となる仕組が分ります。
また、岩戸開きの秘密が、今朝、ふと判ったのですが、
七人に知らせる道の仕組。最初の三人は別として、とありますが、
これは、最初の三人とは、過去の自分、現在の自分、未来の自分、です。
ですから、今の御自身が、過去であり、未来となり、現在へと同一化していく事で、三人となるのです。
その三人となった御自身が七人に知らせていく事で、合計八人が、十となる仕組。
これが岩戸(一八十)開きです。
その後は、その七人の方が、更に七人に伝えていく仕組です。
その七人の方が、七人に道を伝えていくには、御自身が三人となる。この繰り返しです。
最初の御自身の一人が、七人に知らせていく仕組は、当初は八ですが、それが、十となりましたら、次の十一へと進むのです。
神様となった十が、また一(人)と和していくのです。これが十一(カミヒト)です。
このことにより、クニトコタチ(九二十九十千)が、クニヒロタチ(九二拡十千)となります。
くにつつみ、によって、コトが、千人力に進む流れが、くにつつみから、神々様、千人力が、自然と拡がる流れとなっていくのです。
クニトコタチ、から、クニヒロタチ、へ、の解釈はまだ他にもあると思いますが、また、これは別の機会にしておきます。(笑)その内判ってくるでしょう。
Ⅲ.黄真中、青、緑、赤、橙、紫の六色、六変、六合から、白黒、七、八、九、十、立体の道がイロタマの道です。
●クニは黄であるぞ、真中であるぞ、天は青であるぞ、黄と青と和合してみどり、赤と和して橙(だいだい)となり、青と赤と和して紫となる、天上天下地下となり六色となり六変となり六合(クニ)となるのぢゃ、更に七となり八となり白黒を加へて十となる仕組、色霊(イロタマ)結構致しくれよ。
クニは黄色です。真中です。地でもあります。
天(・)は青です。
黄と青と和合して、緑となります。
黄色は、赤と和して橙色となります。
ですが、赤の説明ここではないですね。
その青と赤と和して紫となります。
天上天下地下となり、六色となり、六変となり、六合(クニ)となります。
この赤は、御自身でしょうか。
もしくは、クニの黄色が御自身なのでしょうか。
この辺りが気になる処です。
やがて、六合(くに)は、七となり八となり、白黒を加へて十となります。
この七、八に向かうのが、白、黒なのか、
九、十に向かうのが、白、黒なのか。
どちらの解釈もありそうですね。
三界和合、裏表の和するで六までは判りますが、
白、黒は、どちらかと言えば、立体を感じますね。濃淡。とも言えるからです。
これの、七八、九十、二段階があるのでしょうか。
これが立体、イロタマ結構の道かもしれません。
5.まとめ
木でも草でも、皆中から大きくなります。
あらゆる存在と和していく事から始まります。
みがけば神様と同列のミタマ、となります。
みがけば、は、三我けば、とあり、三つの段階を経て、三が道として、我を改心し続けていけばよいのです。
みたま(三十真)みがき(三我キ)とは、三界和合の、我のキ、でもあります。
三つの御自身が神となる、御自身の和合によって、神のキとしていくのです。
中の御自身を掃除しないでいますと、いつまで経っても、岩戸がひらけてゐても、岩戸はひらけません。
それ程に、11の囚われ、6つの慢心は強固ですし、曇りをどんどん強めていくものでもあるのです。
よくない子が出来たら、海藻、山の菜、野菜を食べさせてください。段々よい子になります。
平等愛とは、差別愛のことです。
それぞれの差があってこそ、和していく事で、新たな世界が生み出されていくという事です。
選挙すればするほど、多数決は、本質から遠ざかります。
そこには、理解が無くても、成立するからです。そして、多数決の囚われからおかしくなり、更に更に囚われの世界へとおかしくなる流れです。
その囚われとは、悪魔に魅入られてゐる、とも伝えられており、実際、その事にも気付けていないから判らない事になります。
平面の数は囚われの元であり、立体の数に入れば、無限の世に進む事ができます。
何も彼も、前に前に、過去に過去に知らしてあるのに、人民は先も見えませんし、過去も見えていないですし、言葉の【ふくみ】(二九三)が判っていませんから、取違ひばかりとなっています。
世界の山も川も海も草木も、動物、虫けらも、皆この方が道具に、数でつくったのです。
それは、かずたま、から始まっています。
愈々とは、一四一四、であり、五と五であり、十であり、十一(カミヒト)です。
最初の御自身の一人が、七人に知らせていく仕組は、当初は八ですが、それが三界和合の御自身となりますと、十と進み、次の十一(カミヒト)へと進むのです。
クニトコタチがクニヒロタチとなります。
黄、青、赤、和して天上天下地下となり、六色となり、六変となり、六合(クニ)となります。
更に、七、八、九、十、白、黒、和して、立体に進むのが、立体の道です。
修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。