まことに関する文面41 素盞鳴の命とは、ナギナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられた尊き御神です

マンデラ・エフェクト文面(2025年6月24日~

まことに関する文面41に進みます。

今回の文面は、碧玉之巻 第十帖 その2、第十二帖の二つの文面です。

碧玉之巻 第十帖 その2、では、五度の岩戸しめ、の内、三度目、四度目、最後の岩戸しめ、についてお伝えします。

今回のマンデラ・エフェクト文面は、双方起こってゐます。

碧玉之巻 第十帖 その2、では、三度目、四度目の岩戸しめ、が大幅に変わっています。(五度目については、以前と変わっていないと見ます)

三度目の岩戸しめ、それは、素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時です。
素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神です。

天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものがツミ(積)です。
よろづの天の神々が、積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せず罪神と誤ったので岩戸しめとなったのです。

ですから、素盞鳴命は、アラブル神、粗暴暴れるのではなく、アラフル(現生る)神です。天ヶ下、大国土守り育てる神様です。神々様までの罪を背負って、なおかつ、積とし、天ヶ下(あめがした)を治しめし続けてたのです。

この事を理解できませんと、今度の大峠は越せないのです。

また、素盞鳴の命とは、絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神です。これも初めての話です。

素盞鳴の命にも二通りあります、一神で生み給へる御神、夫婦呼吸を合わせて生み給へる御神、です。
今回は、素盞鳴の命とは、夫婦呼吸を合わせて、生み給へる御神として、御伝えされたのです。

四度目、神武天皇の岩戸しめは、人皇の名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされた為です。
四度目の岩戸しめは、神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神(カム)ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたものです。

このように、神武天皇は、神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくした、神(カム)ヤマトイハレ彦命、と伝えられており、どの程度の事をかくしたのかは、今後明らかになっていく、と見ます。

碧玉之巻 第十二帖では、
言(ことば)こそは、誰もがもてる其(理)のささげものです。与へても、与へても無くならんマコトの宝、とお伝えされています。

最後は、言葉を発しなくなると見ますが、言(ことば)での活動もそこまでの道中、やはりしていきます。

それでは、まことに関する文面41をお伝えしますね。

1.碧玉之巻 第十帖 その2 素盞鳴の命とは、絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神です。

Ⅰ.三度目の岩戸しめ、素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時です。素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神です。

次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。

三度目の岩戸しめでは、素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時、です。

この後が、マンデラ・エフェクト文面と見ます。

素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神です。
ここまで具体的に伝えたのは、初めて、と見ます。

Ⅱ.天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものがツミ(積)です。よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せず罪神と誤ったので岩戸しめとなったのです。

天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、

これも、マンデラ・エフェクト文面です。

天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたもの、とお伝えされています。

ですから、ツミと見へるのですが、よろづの天の神々様がつもると云ふ、つみ(積)をよく理解せずして、罪神と誤ってしまったので、これが正しく岩戸しめ、となったのです。

天ヶ下(あめがした)そのものが初めて、と見ますが、天ヶ下(あめがした)はと重きもののつもりて固まりたもの、重きもののつもりて固まりたもの、なのです。それがツミと見えたのです。

ですが、よろづの天の神々様がつもる、と云ふ、つみ(積)をよく理解できず、罪神と誤ったので、岩戸しめ、となったのです。

五度の岩戸しめでも、最も重要な話はこの、素盞鳴命の話と以前よりありました。
罪・穢れ・過ちを背負わせてしまったのが、現在の平面世界の神々様、広くは、人民、臣民だったのです。

Ⅲ.素盞鳴命は、アラブル神、粗暴暴れるのではなく、アラフル(現生る)神です。天ヶ下、大国土守り育てる神様です。

命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。

命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないのです。
あばれ廻り、こわし廻る神様ではないのです。

アラフル(現生る)神、なのです。
天ヶ下、大国土を守り育て給う神なのです。

取違ひしてゐて申し訳あるまいがな、とあります。

多くの日本神話では、暴れる神様として描かれている事多いですが、実際には、アラフル神様なのです。

Ⅳ.素盞鳴の命は、暴れる神様ではなく、アラフル神様、である事を理解できませんと、今度の大峠は越せません。

このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。

素盞鳴の命とは、暴れる神様ではなく、アラフル神様、である事を理解できませんと、今度の大峠は越せないのです。
実は、この素盞鳴の命の型出しをしていく事が、次々求められるのです。

そして、その大きな型も同じ仕組みを御自身が、理解体験を進める事で、今度の大峠も越していく流れとなります。

Ⅴ.素盞鳴の命とは、絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神です。

絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。

これも初めての文面ですね。

素盞鳴の命とは、絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神様が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神様です。

素盞鳴の命とは、ナギ、ナミ両神様が、生み出したのは、初めての文面、と見ます。
それも、天ヶ下を治らす御役目、としてです。
そのお役割も大きなものです。

また、ナギナミも絶対の御理を発揮し給ふ、も初めてです。ナギナミも以前とは違って来てゐます。

Ⅵ.素盞鳴の命にも二通りあります、一神で生み給へる御神、夫婦呼吸を合わせて生み給へる御神、です。

素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。

これも初めての文面です。

素盞鳴の命にも二通りあるのです。

一神で生み給へる御神様と、夫婦呼吸を合わせて生み給へる御神様と二通りあるのです。
間違へてはならん事です。

多くの方々が御存じの素盞鳴の命とは、一神で生み給へる御神様の事です。

ですが、此の度、ナギナミ両神様が千引の岩戸を開いたことにより、素盞鳴の命とは、夫婦呼吸を合わせて生み給へる御神となったのです。

Ⅶ.四度目、神武天皇の岩戸しめは、人皇の名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされた為です。

神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。

四度目の岩戸しめ、神武天皇の時は、御自ら人皇を名乗り給ふより、他に道なき迄の御働きをなされたからです。

この事により、独り神のナギ神としての御活動だったので、より苦しむ流れとなったのです。

Ⅷ.四度目の岩戸しめは、神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたものです。

神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。

これも、マンデラ・エフェクト文面です。

神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして、神(カム)ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれた、ので、大きな岩戸しめの一つです。

ですが、以前では、神の世から人の世への移り変りの事柄を、岩戸にかくした記述もありませんでしたし、神(カム)ヤマトイハレ彦命、としての活動も無かったと見ます。

実は、神(カム)ヤマトイハレ彦命、という呼ばれ方は、本日、初めて知りました。
私が単に知らなかっただけ、かもしれませんが、マンデラ・エフェクト、としか思えません。

そもそも、神をカム、と呼ぶという位置付けを、皇室がしていた記憶が全くないのです。

また、この文面では、神武天皇、岩戸にかくしたのは、どの程度判ってしていたのか、が今後の焦点になると思います。
その内明らかになるかもしれません。

Ⅸ.五度目の岩戸しめは、仏魔わたり来て、完全に岩戸がしめられ、クラヤミの世となったのです。

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、

五度目の岩戸しめです。
ここは、マンデラ・エフェクトは起こっていないと見ます。

仏教の渡来までは、わずかながらも、マコトの神道の光がさしてゐたのですが、仏教と共に仏魔わたり来て、完全に岩戸がしめられたので、クラヤミの世となったのです。

Ⅹ.その後は乱れほうだい、やりほうだいの世となり、五度目の大き岩戸しめです。

その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。

その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのです。
これが五度目の大き岩戸しめです。

日本では、大化の改新以降です。

このようにして、平面、で囚われた世となったのです。

五度の岩戸しめ、を一度にあける、という話がありましたが、これが、この後、マンデラ・エフェクト文面で、明らかになっていくのでは、と見ます。

2.碧玉之巻 第十二帖 言(ことば)こそは、誰もがもてる其(理)のささげものです。与へても、与へても無くならんマコトの宝です。

Ⅰ.ささげるもの、与へるものは、無限にあります。ささげよ(三三下四)ささげよ、与へよ(あ、十、経、四)与へよ、としてください。

ささげるもの、与へるものは、いくらでも無限にあるでないか、ささげよささげよ、与へよ与へよ、

ささげるもの、与へるものは、いくらでも無限にあります。

ささげよ(三三下四)ささげよ、与へよ(あ、十、経、四)与へよ、とあります。
三が道、しきまきや、から生み出し、永劫の過去からしきまきや、を経て新たな世界を生み出していきます。

Ⅱ.言(ことば)こそは、誰もがもてる其(理)のささげものです。与へても、与へても無くならんマコトの宝です。

言(ことば)こそは誰もがもてる 其(理)のささげものであるぞ、与へても与へても無くならんマコトの宝であるぞ。

言(ことば)こそは、誰もがもてる其(理)のささげものです。

与へ(あ、十、経)ても与へても無くならんマコトの宝です。

無限に生み出す事が出来ます。

今後、私も、この型出しをこれまでもしてきましたし、今後も当面していく流れとなりそうです。

3.まとめ

三度目の岩戸しめ、素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時です。素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神です。

天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものがツミ(積)です。よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せず罪神と誤ったので岩戸しめとなったのです。広くは、人民、臣民も罪を背負わしたのです。

素盞鳴命は、アラブル神、粗暴暴れるのではなく、アラフル(現生る)神です。天ヶ下、大国土守り育てる神様です。
取違ひしてゐて申し訳あるまいがな、とお伝えされています。

これらの事を理解できませんと、今度の大峠は越せません。

素盞鳴の命とは、絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神です。ナギナミも絶対の御理を発揮し給ふのです。

素盞鳴の命にも二通りあります、一神で生み給へる御神、夫婦呼吸を合わせて生み給へる御神、です。
此の度、ナギナミ両神様が千引の岩戸を開いたことにより、素盞鳴の命とは、夫婦呼吸を合わせて生み給へる御神となったのです。

四度目、神武天皇の岩戸しめは、人皇の名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされた為です。
四度目の岩戸しめは、神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたものです。

神武天皇、岩戸にかくしたのは、どの程度判ってしていたのか、が今後の焦点になると思います。

五度目の岩戸しめは、仏魔わたり来て、完全に岩戸がしめられ、クラヤミの世となったのです。

その後は乱れほうだい、やりほうだいの世となり、五度目の大き岩戸しめです。

ささげるもの、与へるものは、無限にあります。ささげよ(三三下四)ささげよ、与へよ(あ、十、経、四)与へよ、としてください。

言(ことば)こそは、誰もがもてる其(理)のささげものです。与へても、与へても無くならんマコトの宝です。
言葉の行も道中していく事になります。

修業守護の神々様、役員守護の神々様、天の日月の大神様、五柱十柱の神々様、地の日月の大神様、世の元からの生き神様、百々諸々の神々様、いつも御守護頂き、ありがとうございます。

※本日、前世の法則、更新しております。

遂にナギナミ神が千引の岩戸を開き、スサナル神のお役割が判りました 2026年1月20日現在

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