ここまで、あなはち、しきまきや、くにつつみ、結構お伝えしてきましたが(特に、しきまきや、くにつつみ)、
あなはち、しきまきや、くにつつみ、って何ぞや?と気になる方とても多いと思います。
日月神示の中では、あなはち、しきまきや、くにつつみ、って1か所の文面しか登場しません。
ですが、あなはち、については、「あな」、で検索すれば、あなはち、の意味が大体判ってきます。
また、しきまきや、についても、「しき」、に関する文面である程度、判ってきます。
くにつつみ、でも「くに」「九二」で結構判ってきます。
あなはち、しきまきや、くにつつみ、について、それぞれ、詳細にお伝えしていこうと思いましたが、一回で終わりそうにはありませんので、今回は、まず、この三つが書かれています文面について、お伝えしていきたい、と思います。
1.あなはち、しきまきや、くにつつみ、の文面について
実は、この三つは、1つの文面の中にしか登場しません。
くにつ巻 第八帖にあります。
この文面では、冒頭の文面も大切なのですが、今回は、あなはち、しきまきや、くにつつみ、に関する事ですので、途中から後半に向けてお伝えしていきます。
Ⅰ.今の祝詞は、口先ばかり、祝詞も抜けています
●神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。
お祓いの祝詞は、あげても、何にもならない、とまで伝えられています。
お祓い祝詞は宣(の)る事から始まります。
ですが、今の神主は宣(の)っていないのです。
宣(の)る、とは、のる(九一、流)、です。
改めてまたお伝えしますが、くにつつみ。を始める流れです。
確かに、くにつつみ、している神主さんは、私も見た事、聞いた事ありません。
ですが、その、くにつつみ、が非常に重要なのです。
口先ばかり、というのは、心・口・行、の内、心・口、止まり、という事です。
場合によっては、口、だけでしょう。心から思ってもいないかもしれません。
神のハタラキは、心・口・行、の一致から始まります。
●口と心と行と三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろが。
ここにもある通りですが、三つ揃った行い、とあります。
特に、くにつつみ、の行動していませんと、新たな世界を生み出す事ができません。
ですから、今の神主、口先ばかり、と伝えられています。
祝詞、とは、のりと(九一、理、十)。ですね。
祝詞とは、くにつつみ、の、道、の神。とも言えます。
殆どの神主さんは、祝詞抜けている、というのはよく分ると思います。
Ⅱ.あなはち、しきまきや、くにつつみ、皆抜けて読んでおり、悪や学に騙されて肝腎の祝詞が骨抜きにしてゐます
●あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。
このように、あなはち、しきまきや、くにつ罪(つみ)、皆抜けて読んでゐます。
それで、臣民の心には、きたなく映る、と伝えられています。
それは、心(九九六)の鏡(六七、我、三)がくもってゐるからです。
苦を苦で無くす、無から生み出す、その心。
無から、もう一段上の無から、三が道を生み出す、我、が曇ってゐる為です。
その原因は、悪や学に騙されている為で、肝心の祝詞まで骨抜きにされています。
これでは、世界がきよまらないのです。
Ⅲ.祝詞はよむものではなく、のる、いのる、なりきる、とけきる、事が求められます
●祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、
祝詞はよむものではありません。
神前で読めばそれでよいと思ってゐますが、それだけではどうにもならないのです。
まず、宣(の)る、のです。
「の」は、ひふみでは、九行目一段目、にあります。
九は悟り、がありますが、苦を苦で無くす、という事もあります。
のる(九一、流)事がまずあります。
いのるは、この三次元世界では、まず、行じる事があります。
その次に、省みる事にあります。
その上で祈る事にあります。
この三つ全てしていく事によって弥栄していきます。
黄金の巻、第百帖にもあります通りです。
なりきる、はそのままでもあります。その心のまま、なりきる、のです。
七理キ流、のです。七は、もう一段上の無を、理(ミチ)に進むキ、です。
ナルト、でもあり、神の現れそのものを意味します。
●二二はもとのキぞ。ナルトとはその現れのはたらき。
二二のもとのキの現れが、なると、ですが、その神様のキになりきる事が求められます。
とけきるのざぞ、は、そのまま、溶けきる、もあるでしょう。
十気キ流、です。神様のキの流れに、溶け切ります。
Ⅳ.祝詞は、神主だけでなく、どのような方もしていく事が重要です
●神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。
そもそも、祝詞を、人の我、囚われによって、細分化した事により、弥栄、まつり、祓、からかけ離れていく事となったのです。
これが、人の我の恐ろしい所でもあり、その事に殆どの方が、疑問にも思いません。
神のことは神主に、仏は、坊主にというのがそもそも、根本からの大きな間違い、とお伝えされています。
この文面は、マンデラ・エフェクトが起こる前から、最初からありましたが、それでも、全く疑問に思わない人が圧倒的多数です。
神も、仏も、全て、御自身が、まつらう事が求められ、まつり実践が求められています。
それが、弥栄実践となり、更には、祓実践も求められます。
それを理解した上で、読むだけでなく、のる、いのる、なりきる、とけきる、のが、祝詞、です。
ですから、まず、祝詞をする際には、普段より、心・口・行の一致が求められる、という事です。
これが、できていませんと、普段から、祝詞に力がのりませんが、逆に言えば、心・口・行を一致させ、神の御心を入れていく事によって、その上でいのりますと、無限に力を拡大させる事ができます。
2.まとめ
今回は、くにつ巻 第八帖にあります、あなはち、しきまきや、くにつつみ、の文面をお伝えしました。
今の祝詞は、口先ばかり、祝詞も抜けています。
それは、あなはち、しきまきや、くにつつみ、全て抜けている為です。
抜けている原因は、心の鏡が曇っている為で、悪や学にだまされて、肝心の祝詞が骨抜きにされている為です。
人の我の恐い所で、囚われの世界を生み出したのです。
これでは世界はきよまりません。
祝詞とは、よむものではなく、のる(九一、流)、いのる(行じ、省みた上での祈り)、なりきる(ナルトの道のキの流れとなる)、とけきる(神様の気配、キ、の流れとなる)、事が求められています。
このように、神主だけがするものではなく、どのような方であっても、祝詞はしていく事が重要なのです。
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